紀第三 毒気
第十三
朝。目覚めた皓月は直ぐに起き上がって身支度を整えた。
いつもよりも時間を掛け、念入りに化粧をする。
「化粧、濃くないか」
未だ牀に伏せたままの月靈が言う。皓月は「この虎……」と言わんばかりの目で睨んだ。
ここ最近“皦玲”用の清楚な雰囲気の化粧しかしていなかったからだ。“皓月”用の化粧は元々こんなものだった。皓月の趣味では無く、侍官達の趣味である。
「文句を言う程暇だったら、旣魄の服を調達して来てくれ。浩の服では目立つ」
「――承知した」
軽く欠伸をしながら身を起こした月靈が姿を消す。
一通り準備を整えた辺りで、疲れた様子で戻ってきた。
皇太子に声を掛け、月靈が用意してきた衣に着替える様に伝える。
「――これで、大丈夫でしょうか」
月靈が用意してきたのは、黒地に品良く銀の刺繍の入った身軽な衣だった。白や藍色系統の衣を来ていることが多い彼には新鮮だったが、彼の銀の髪に良く映えていた。が、今度は、いかにも浩の貴公子といった風情の髪型が衣に合わない。
「着方は大丈夫ですね。座って下さい。髪も直しましょう」
言われるがままに椅子に座った彼の後頭部を見下ろす。髪をまとめる絹の細帯を外し、櫛で丁寧にとかす。と、癖のない髪は、少し櫛を通すだけで十分だった。うらやましさの余り殺意を抱かれてしまいそうな、素晴らしい髪質である。
皓月は卓子の上に置いていた金属製の繊細な飾りを手に取り、向かい合うように立って位置を確認しながらつける。
「この額飾りは颱人の習慣です」
「ああ、そういえば。皆さん確かに身に着けていらっしゃいましたね」
「生まれた赤子に対し、皇帝陛下の名のもとに、一人ひとつ、与えるのです」
邪物は額から入るという。故に額飾りでもって邪物の侵入を防ぐのである。皇帝から与えられるもののほか、親が子へ、あるいは兄姉から弟妹へ、主から従者へと贈られることもある。どれか一つだけを着けるものいれば、複数重ねづけをする者もある。また、恋人同士の場合、互いのものを交換したり、新しいものを贈り合ったりすることもあるのだったが、皓月は口にしなかった。
「よくお似合いです」
顔が整っていると、何でも着こなせてしまうということだろうか。などと考えている皓月を、皇太子が見つめているのに気付いて、皓月は首を傾げた。彼は、ゆったり微笑んで、
「昨夜も思いましたが、雰囲気が随分違いますね。勿論、どちらも美しゅうございますが」
などと平然と言うので、皓月は思わず声がひっくり返りそうになった。
「え、……ええ。変装というか、何と言うか……姉に見えるように少々変えてみました。浩に嫁いだ皇女が颱に突然現れては怪しいでしょうから」
「姉君と仰いますと……皇太女の風皓月殿ですか?」
皓月が「皓月」として振る舞う為の変装。
我ながら大層奇妙な話ではあるが、実際そうなのだから仕方がない。
「そうです」
頷きながら、皇太子が口にした己の名に、努めて動揺を顔に出さぬように表情を取り繕う。
「……そうですか。では、私はあなたの護衛ということにしておきましょう」
「良き案です。それで参りましょう」
「では、あなたのことは何とお呼びすれば?」
「ああ……ええと」
皓月は口籠もった。
「――白、小姐と」
「白、……小姐?」
そもそも“小姐”とは、颱でも浩でも、未婚士族女子への呼びかけの言葉だ。
皓月の事情を察していた宜王にはなんの抵抗もなかったが、彼は一応、皓月の夫である。夫に未婚の女子のように“小姐”と呼べというのは流石に気が引けた。
が、実際、対外的に“颱の皇太子・皓月”は現在も、この先即位しようとも、ずっと未婚のままである。故に、“皓月”を振る舞うのなら小姐呼びはそう間違っていない。
「颱の皇族は、伝統的に、
「そうでしたか……」
納得したように頷いたあと、ふと銀の瞳が、皓月を射貫いた。が、それは一瞬だった。はっと息を呑んだ皓月に、彼はやわらかく微笑んだ。
「――いつか、あなたの名を、呼ばせていただけるとよいのですが」
「はい!?」
今度こそ、完全に皓月の声がひっくり返った。声だけで無く、天地がひっくり返ったような気さえした。
「な、なにを……」
その意図が窺えず、赤くなったり青くなったりしている皓月の耳元で、
「ですが、今は、その時ではありませんからね」
と、わざとなのか、無意識なのか、妙に色香溢れる低音で囁いてみせた彼に、“引きこもり”などとんでもない、“たらし”に違いないと、皓月は心の中で叫んだ。同時に、そんな己の忙しなさと子供っぽさが、急に恥ずかしくなった。とうに成人しているとはいえ、8つも年上の皇太子からすれば、皓月は十分、子供なのかも知れないが(なお、皦玲の歳で考えれば10歳差である)。
そう思うと、今度は妙に悔しくも感じたのだった。
* * *
宿を出て、皓月たちは市に向かった。その近くで簡単に朝食を済ませ、食糧を買い込んで出発した。玄冥山に到着したのは、夕刻に差し掛かる少し前である。
岩だらけの山は道が極端に狭く、少しでも足下をふらつかせたら、途端に谷底へ真っ逆さまに落ちそうな程である。
「――母君の白虎の気配はありますか」
皇太子の問いに、月靈を促す。月靈は、唸るように答えた。
『……分からぬ。妙な気配に邪魔されているような……』
「妙な気配?」
「――そこに居るのは誰だ」
鋭い誰何の声がして、皓月は身をこわばらせた。
(……この……声は……)
馬蹄の音がして、振り返れば予想通りの顔で、皓月は柳眉を寄せた。
ここに来て最初に出くわした母国の人間が、よりによって、まさか、この男とは……。
急速に、どこかが冷えていくのを感じた。
「あなた様は……」
愕然とした男の濃い緑色の目と、冷淡な金緑の目が交叉する。
「――
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