第十二

 生まれた当初、皓月の髪は、もう少し銀色みが強かったという。それが、白虎の守護を得てから、陽光に煌めく雪原を思わす明るい色みに変わったと聞く。


「……なぜ、その話を?」


 黙り込んでいた皇太子が、尋ねる。

 皓月は、これまで、皇太子に魄の話を敢えて話さなかった。そのことは彼も当然、気付いているだろう。にも関わらず、今、なぜこの話を切り出したのか、と。


「魄については、わたくしもこれ以上は存じ上げません」


 母皇は父やその生まれについて、詳しくを語らなかった。

 父が魄という一族の人間だということ。「皓月」の名は父が付けたということ。それくらいのものだった。そうして、父の故郷のうただという一曲を教えてくれたのだ。

 だが、無論、それをそのままいう訳にはいかない。皓月の正体に直結する話である。


「母皇ならば、何かしらご存知でしょう」

「――颱帝が?」

「魄の話は、昔――母皇が教えて下さったものですから」

「そうですか……」

 

 相槌を打って、彼はまた黙った。

 燭台に灯る、炎の揺らめきの、その音が響こうかという程、瞬間、場が静まる。

 じんわりと汗を滲ませて、しかし表向きにはなんということもない表情を取り繕いながら、皓月は皇太子と視線を交わす。

 それは、男女の間に流れるような、熱を帯びたものではない。

 意味ありげな、思わせぶりなものでもない。

 刃を交える時のような緊迫感。それに似た緊迫感が、二人の間に流れていた。


 目を逸らしてはならぬと。


 しかし、ある瞬間、互いに相手の瞳の奥に、張り詰めた表情の己を見いだして、二人同時に、はっと息を呑んだ。

 直後、どこか遠くから、どっと人々が笑いさざめく声が響いてきた。

 その声に促されるように、皓月は重たい口を開く。


「北の、玄冥山で母皇の行方がわからなくなった、と。わたくしでしたら、母の白虎の気配を追えばすぐでしょう」

「それで、捜しに? ……魄の話を先になさったのはそういう訳でしたか」


 見上げると、ほんの少し困ったような表情で微笑む目と目が合う。


「母后や我が身にも関わるとあっては、お止めする訳にも参りませんね」

「では、」

「母皇君を心配していらっしゃることは、理解します。しかし、今の貴女は颱の皇子こうしではなく、浩の皇太子妃なのです。貴女が我が国にいらっしゃった所以を、お忘れ無きよう。母皇君が見つかったら、すぐお戻りになると、約束して下さい」

「わかりました」


 皓月は頷いた。もとよりそのつもりである。


「では、私もお付き合いいたしましょう」

「そんな。お忙しい殿下に――」

「貴女が優れた武藝の才をお持ちだとは承知しておりますが。お一人で行かせる訳にいかない以上、貴女の白虎殿の脚に、他の誰が追いつけます」

「しかし……」

「問題ありません。監国の任も、解いて頂きましたし。皇上も、とうに恢復なさってますしね」

 

 いい笑顔で言い放った彼に、皓月はそれ以上拒否を貫くことは、出来なかった。


 * * *


「どうぞ、こちらを使ってください」

 

 話がまとまった所で、皓月は、皇太子に空いている部屋を案内した。最初、彼は別に取るつもりだったようだが、部屋は余っているので使えばいいと言ったのだった。


「明かりはこちらに」

「いえ。私には必要ないので大丈夫です。貴女がお使い下さい」


 目が日光に弱いと言って日中隠して出歩く位なのだから、明かりは必要ないのかも知れない。


「それでは、わたくしはこれで」

「ええ、ありがとうございます」


 寝仕度を整えて、寝具に入る。闇に融け入るような、柔らかな笛の音が幽かに響いていた。

 その音は、耳から、肌から染み込んでいって、あたたかな手に瞼をそっと覆われるような眠りへ誘う。ちょうど、寝入る頃合い、皇太子宮から響いてくるその音を聴いている内に、いつも寝入ってしまうのが最近では常だった。


「……眠らないのですか?」


 扉越しに声をかける。夜の静寂の中では、そう大きくない声でもよく響く。その声が聞こえたのだろう、笛の音が止まった。


「――ああ、申し訳ございません。煩かったですね」

「いえ。そんなことはありません。どうぞ、続けてください」


 寧ろ、寝入るのには最高に心地良い音である。

 しばし、沈黙が落ちて、また笛の音が流れ始めた。


『……この笛の音には……鎮め、癒やす力があるようだな……』


 月靈の声が頭に響く。


『皓月の、駆り立てる琴とは逆だな』

「……それは、褒めているのか? 貶しているのか」


 牀上で丸くなっている月靈を小突いて、小さく尋ねる。

 笛の音が止んだ。終わりらしい。


「……いつも、その曲を吹いてらっしゃいますね」

「ええ。乳母が……好んで吹いていた曲です」


 乳母というと、皇太子の腹心である巫澂こと瀏客りゅうかくの母君である。


「――私の笛は、彼女に習ったのですよ。瀏客も習ったのですが、彼は苦手だったようで」


 少し笑いを含んだ声が響いた。月靈の毛並みを撫でていた手が止まる。

 その乳母は、と尋ねかけて、皓月は口を噤んだ。闇から響く、その声に含まれた、声音。


 不用意に触れてはいけない、と直感が告げていた。


 だから皓月は、牀の上に身を横たえて、それ以上は何も言わず、目を閉じた。体力に自信はあったが、それでもそれなりに疲れてはいたのだろう。夕方に仮眠を取ったのにもかかわらず、眠りはすぐに訪れた。


 * * *


 日。

 自分の口に入る筈だった茶を飲んで、乳母が血を吐いて倒れた。


「――夫人、何故……!?」


 その人のことを、彼は「祁夫人きふじん」と呼んでいた。

 今は亡き賢臣・祁弘烈き・こうれつの妻だというのが、彼女の誇りだったからだ。


「殿下……宜しゅうございますか……この、乳母の、話を、ようくお聞き、ください……」

「何でも聞く、祁夫人。だから……!」

「……この離宮を出てください。近くの穹嶮きゅうけんというところに、沈垂柳しん・すいりゅうという者が居ります。わたくしの弟です。あれが持っている“百通霊光丸”さえあれば……」

「それがあれば、助かるんだな?」

「……ええ」

「すぐに行ってくる」


 立ち上がった彼を見上げる乳母の目は、苦しみの為か、或いは別の感情からか、今にも溢れ出しそうに潤んでいた。

 が、踵を返そうとした旣魄の袖を、彼女は掴んだ。


「祁夫人?」

「……どうか、……殿下の笛の音を、行く前に……」

「しかし、急がねば……」

「お願いします……旣魄様」

「……わかった」


 懐から笛子を取り出し、構える。

 乱れた心で奏でる笛の音は、我ながらに悲惨の一言だった。

 それでも祁夫人は、微笑みながら聴いていた――。






「――朝か」


 ずっと書物を読みふけっていた旣魄は、鳥の鳴き声で朝の訪れに気付いた。

 ほんの一瞬、脳裏をかすめた過去の光景にそっと眉をひそめる。

 

 締め切っているので、外の光は入ってきていない。光は無くとも普通に書物を読めるこの目は、太陽の光の下ではあまりに眩しすぎる。お陰で彼の行動時間は夜が主となる。大抵、朝から昼過ぎまで睡眠を取り、それからは起きているのが常だった。


 ただし、新月の夜とその前後はその限りではない。強烈な眠気が押し寄せ、何があってもほぼ起きない。故にこの間は、全く使い物にならないのだ。――妃が看破したように。


 書物を閉じて身形を軽く整えたところで、隣の部屋から物音が聞こえ始めて、彼は小さく、唇の端を上げた。

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