第十一

 魄、と小さく呟く皇太子に、皓月は頷く。


「“魄”一族の名を、耳になさったことは?」

「……いえ……」

「魄の民は、謎めいた神秘の一族。とはいえ、かつては数こそ少ないながら、この大陸の人々との関わりがあったそうです。――なれど、彼らはあるとき姿を消し、今ではその存在も忘れ去られてしまったといいます」


 皓月は、一度口を閉ざす。軽く息を吐いて、茶杯の中の茶を喉へと注ぎ込む。鼻腔を抜ける香りに心を落ち着けて、言葉を続けた。


「なれど、――奇妙だとは思いませんか。貴方ほど、古今の書物に精通した御方が、魄一族について、生まれて以来一度も耳にせず、それに関する記事を一度も目にしないなどということが有り得ましょうか? 不自然でしょう」

「……貴女は、」

 

 既に彼の表情からは、笑みは消えていた。


「誰かが、それらの記録を消したと仰るのですか」


 室内を微かに照らす炎が、その目にちらついていた。


「……もとの記録がそう多く無かったにせよ、浩や周辺国全てとなると、挙国の大業です。まさか、」


 皇太子が言う所の「挙国の大事業」を、浩では建国期に行っているのである。

 彼も、すぐに思い至ったようであった。


「――『昊本遺編こうほんいへん』」


 唸るように発せられた声に、皓月は頷いた。


 浩を大陸における文化の中心地と評価させるに至った、『昊本遺編』。優れた文化を有した昊国の書物の内、後世へと遺すべき価値ある書物を集め、それを校勘(複数のテキストの本文の異同を比較整理して正すこと)、分類したものである。巻数にしておよそ3万巻に及ぶ。

 皇太子の昇龍宮の書庫には、そのまぼろしの初版本が所狭しとひしめいていた。


「『昊本遺編』はその編纂に際し、地域ごとに書物が大量に集められました」


 名目は、遺すにふさわしい、より正確な本文を求めるため。


「その中で、魄に関する書物の――焚書ふんしょ刪修さんしゅうが行われた?」

「『昊本遺編』の編纂が行われたのは建国から日も浅い動乱の時代。文化の振興も大事ではありましょうが、他に優先すべきことは、あの時代、いくらでもあった筈。それを敢えて断行したのには、急ぐ理由があったのかもしれません」


 当時、各地で勃発した戦乱で焼けた書物は多く、危機感を募らせた者たちは多くいた。当時の記録は余り残っておらず、不明な点が多い。しかし、国の土台は未だ脆弱で、社会の仕組みをととのえ、生活をととのえていくことが何よりの課題であったというのは確かだ。故に、国家を挙げて、貴重な昊の書物を保護しようという動きは、“時期尚早”との声は絶えなかった。されど、戦乱の中でも、比較的落ち着いていた東南部の文士達を中心に、“貴重な書物が喪われ続ける、今だからこそやらねば”という声もあった。そして、彼らを中心に『昊本遺編』の編纂は行われた。

 完成には実に、二代を要した。


「――もとより『昊本遺編』も、昊から浩へという皇統の正当性を裏付けるため、或いは権威付けのため、刪正が多くなされたのは有名な話ではありますが。なぜ、その一族と私に関係があると?」

「――『夜光 何の德ありて 死すれば則ち又育する(月は一体どのような徳があって、死んではまた生まれるのか)※』」


 月の満ち欠けに関する古辞を呟いた皓月の銀の睫毛に星明かりが降る。

 その光を受けて銀に縁取られた瞳は、神秘的な金緑の輝きをいや増した。


“小月。その名は、……そなたの父が決めたのだ”


 いつか母帝が皓月に告げた声を耳元に聞きながら、皓月は口を開く。


「先程、貴方の――既魄の名は、母君がお決めになったと伺いました。その名は、月相を表す“旣死魄”と“旣生魄”から取ったのでしょう。魄の人々は、月の神を崇めたと言います。それにあやかって、月にまつわる名を持つ者が多かったとか。満ち欠けを繰り返す月は、死と再生の象徴。即ち、内に死生を秘めたその名は、一族の復活への祈りを込めた名なのではないでしょうか」


“そなたが生まれた夜、瑞月が出ていてな。それを喜んで付けたんだ”


「何よりも、魄の人々は、髪に、目に、そして、爪に銀色を帯びたと言います。あなたのように、全て揃っている方は、魄人にも珍しかったそうですが」


 そして、――白銀の髪を持ち、名に「月」を持つ皓月もまた。魄人を父に持つ、魄に連なる血筋であるのだった。





―――――――――――――――――――

※『楚辭』「天問」篇より


お読み下さり、ありがとうございます。

短いですが、きりの良いところで止めておきます!


〈巻一〉において、皓月が周貴妃と王恵妃と対峙した時に、

話にちょろっと出ていた『昊本遺編』。

旣魄の名の由来などなど。


漸く、伏せていた情報の一部を出せました……。

引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




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