第十
横抱きに抱え上げられたまま、落ち着かずに視線を彷徨わせる皓月を見下ろしていた皇太子が、口を開く。
「随分、いつもと雰囲気が違いますね」
「……顔見知りに会ったとき、皦玲皇子が颱にいると思われてはなりませんから」
彼の言うとおり、今皓月は、衣裳だけでなく、髪型も化粧も全て変えていた。――そう、本来の皓月のものに。
高剣掃には、諸々バレてはいたが。
今、皓月は、颱風の、翠色を基調とした上下の衣裳を身に纏い、白い外套を羽織っている。皓月が着ているのは、皇太子が纏っているような、袖のない種類だ。颱では「風衣」と言う。強い日差しが照り付け、強い風が吹きぬける颱では、外出時には皆、この風衣を纏う。色は白が基本だ。季節によって、布の生地や、外出時の状況に応じて、形は様々だが、あまり凝った飾り付けはしない。その分、内側の衣は凝った、華やかなものにする。
妹の雰囲気に合わせて下ろしていた前髪も、今は左右で分けている。後ろは高く結い上げ、黒の細長い布紐でまとめている。額には颱人の習慣である額飾りを、簡素なものを一つだけ。腕には
「それは兎も角、殿下、降ろしていただけませんか……」
「どうぞ、名前で呼んで下さい。誰に聞かれるかわかりませんし」
皓月は黙って、少し考えた。水姓を言えば、もう浩の皇族であると明々白々である。となれば……。
「……璧志様と?」
「宜しければ、旣魄と呼んで下さい。敬称も不要です」
旣魄とは、以前、巫澂(実際は皇太子本人だった訳だが)に頼んで浩の都を案内してもらった時に、彼が名乗っていた名前だ。
「璧志の字は、数年前、皇都に戻ったついでに
「ついで……」
浩では、兄弟など同一世代の親族には同じ偏旁の字を使って名前をつける。この世代はこの字にすべし、と先祖が定めたものが、詩として宗廟に掲げられる場合もあるという。
皇太子が現れるまでは、第一皇子とされていた尚王。皇太子から見ると異母弟にあたる。彼の名は「遜」、字は「推恩」。それに倣い、この世代の皇帝の子は皆、名に「辶」、字に「心」を持つ。なお、歴代皇帝及び、先祖や親と同じ字は名として使わない。口に出したり、文書に書いたりすることも避ける。これを避諱という。特に科挙において、皇帝の名に使われている字を書こうものならば、一発で落第ものである。
因みに、颱にはそういう決まりはない。何なら、皓月の名は、母帝の名である「皓璉」の「皓」字を受け継いだ形だ。
「ええ。父はそこで漸く私に名前をつけるのを思い出したようです」
引きこもりだの、死んだだのと噂される皇太子を、それでも敢えて据え続ける皇帝。先日皇帝が周貴妃を誅殺したときの、皇帝自身の語り口調からも、皇后を深く愛していたことは、よく分かった。その忘れ形見である皇太子にこそ、皇位を譲りたいのだろう。
だが、皇帝と皇太子の父子関係は、今の皇太子の言いようから鑑みるに、なかなか微妙なようだ。
「――では、その名を付けたのは……」
「母だと伺っております」
「やはり、そうですか。……旣魄。とにかく、一度降ろしていただけませんか。落ち着いて話せません」
皓月は思わず零した「やはり」という言葉に引っかかったのか、その意を問うように見返してきた。が、未だに横抱きにされたままの状況に、恥ずかしさの頂点を迎えた皓月は気付かないふりをした。
「そうですか。――私はこちらの方が、お話ししやすいのですが」
「……冗談を……」
「それに、降ろしたらまた、どこかに飛んで行ってしまうのでは?」
どうやら、さっきの予感は当たっていたらしい。
「行っ……き、ませんから……」
「そうですか?」
東宮を抜け出そうとして捕獲された前科がある皓月は一瞬詰まって、妙な所で言葉を切ってしまった。
「ここまで追いつかれては……、――無断では行かぬとお約束します」
「そうですか」
漸く絞り出すと、笑みを深めた彼はやっと皓月を降ろしてくれた。
たったこれだけのやり取りで、疲れた。物凄く。
いつ目覚めて、いつ向こうを発ってきたのかは知らないが、月靈の脚にこんなに早く追いついて来られるとは思いもしない。
ここまで月靈と皓月が走ってきたのは大部分が浩の地である。他の青龍を刺激しないよう、力を通常より抑えていた白虎と、そんなの関係無しに、微かに遺された痕跡を真っ直ぐに追ってきた青龍との違いがあった。要は地の利である。これが逆だったら、状況は全く違った。
既に、ここは颱の地であって、状況的には白虎の方が有利だった。ここで更に引き離された場合、追いつくのは容易くない。それを、彼は察していた。それを悟られないように、表面上は余裕そうな顔をしているだけである。
「……こちらへ」
が、皓月は、その様子に気付かない――というか、皓月の視点からは、余程見上げない限り、上背のある皇太子の表情は直接に見えない。今のように、やや斜め後ろに立たれていると完全に無理である。
宿に戻り、宿の者に声を掛けて借りている部屋に戻る。人に化した月靈と、兄妹名義で借りた部屋なので、二部屋ある。その一室に通し、最低限の灯りのみをともして卓子に着くように促す。皓月は、肆の者を呼んでお湯を持ってこさせ、室内に据え置かれた茶器で茶の準備を整えた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
皓月も着座して、茶杯を口に運んだ。
先程、高剣掃と話しながら酒を随分と飲んだが、矢張り茶の方がいい。ふくよかな香りも、味も、余韻まで完璧だ。
「――不思議です」
「不思議、とは?」
「お茶など、色のついた白湯と何が違うのかと思っておりましたが。貴女が淹れて下さるお茶は、とても――深い味わいですね」
食物の味が全く分からないという皇太子は、前にもそんなことを言っていたか。皓月はほんの少し微笑んだ。
「――それは、ありがとうございます」
茶藝の腕前は、特に師・幽寂が力を注いで皓月に仕込んだものの一つだ。
幽寂先生は、様々なところに独特のこだわりがあったが、特に煩いのが――味だった。
それは、お茶に限らない。かなり
皇太子教育の何に必要があるのかと、疑問に思って、一度だけ尋ねたことがある。
“――何を言う。烹飪の要訣は、天下を治める要訣にも通ずる。それ即ち、むやみやたらに引っかき回さぬこと、これだ。ほらお前、かき混ぜすぎだ。それでは台無しぞ”
そう嘯いて、艶麗に笑っていた。
「もう、ご体調は宜しいのですか?」
「はい。ご迷惑をお掛けしました。お陰で私が倒れたことを知られずに済みました。ありがとうございます」
「……いえ」
皓月は面を伏せて、動揺をやり過ごす。いい加減、落ち着かねば。皓月は深く呼吸する。
「――新月の度にああなるのは、御体質ですか」
直截な物言いに、皇太子は微笑んだまま、茶杯を置いて、ゆっくりと皓月を見た。
「貴方が夜毎に奏でる
皓月もまた、静かに彼を見返して、言う。
「始めは、昏礼の夜です。貴方が説明してくださいましたよね。浩の昏礼は朔月の晩に行う、と。わたくしが玉鱗殿に行って、巫澂と出くわした晩も、黒宮に囚われた晩も朔月の晩でした。いずれも、笛子の音はしなかったと記憶しております」
「――……皇城の暮れ方には、どこからでも弦歌の音が響いているでしょうに」
「そうですね。確かに、殊更に際だって響いていた訳でもありません」
寧ろ、常にどこか、遠慮したような響きだった。だから、あまり気付く者は多くはなかったのかもしれない。
「ただ、――貴方の笛子の音が、わたくしの耳に一番、馴染んだということでしょう」
耳朶にさらりと触れて、響いて行くその音が心地良いと思っていた。それで、夜毎耳を澄ました。
「……」
物思うように眉を寄せた彼は、暫く言葉を探すように口を閉ざした。
室内は、数個の炎が照らすばかり。仄かな灯が濡らす頬には陰翳がさし、皇太子の表情を、ますます読み難いものにしている。
「貴女はなぜ、東宮を出ようと? お話をまだお伺いしておりません」
「勝手に出てきたことを、お怒りではないのですか?」
「そうですね……今すぐ戻っていただけるなら、ありがたいのですが」
それは出来ない。
「なれど、――貴方が直接いらっしゃったのは、ことを表沙汰にする気がないからでしょう」
皓月は、彼からすると二人目の皇太子妃である。先の妃は、対立派閥の者に病死と見せかけて毒殺されたという。二人も立て続けに妃が居なくなったなど、皇太子としての資質を問われかねない事態だ。故に、皓月の意図が分かるまでは、皇太子は皓月が皇太子宮を出たことを隠すだろうとは読んでいた。
皇太子は読めない目をしたまま、笑みだけを深めた。
皓月は、息を吐いた。こちらも手の内を多少明かさねば、これ以上は言わないだろう。だが、止められる訳にはいかない。
「――玄冥山へ行こうと思いまして」
「玄冥山? 北方部族との端境にある、あの山ですか」
「はい」
「理由をお伺いしても?」
「――母君は、貴方と同じように、異民族出身で、銀の髪に銀の瞳、銀の爪をされていたと伺いました」
急に母后の話を持ち出した皓月に、僅かに皇太子が目元を動かした。
が、続く皓月の言葉で、今度ははっきりと表情を変えた。
「――なれば母君は、恐らく“魄”一族のお方であらせられましょう」
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