紀第二 幽かに響く笛の音の(章名変更/2024/04/07/7:14)
第七
『良いのか? 放って行って』
夜。人の気配がまばらになる頃を見計らって皓月は行動を開始した。
「あとは
「
皓月そっくりに扮した璘が、頭を下げる。
「どうか、お気を付けて」
既に一日を潰してしまった。月靈が、夜まで待った方が良いと言ったからだ。
一度失敗したのだ。直後に皇太子が倒れてしまったからどうということも無く済んだが(済んでないかもしれない)。流石に二度目はないだろう。
皓月は皇太子妃であるが、同盟の証としての妃。何かするということではなく、皇太子妃として、ここに居るということ自体に意味がある。勿論、人質として、という意味で。
普段なら、そろそろ毎夜のように、ひっそりと響く笛子の音が聞こえて来る時間だ。
が、吹いている
結局、一度も目を覚まさなかった。
今宵は新月。一晩ずれてしまったが、夜行するならば、寧ろ今日の方が向いている。
目覚めた時に皇太子がどう動くのか、ちょっと怖い気もしなくはないが。まあ、きっと、璘がうまくやってくれるだろう。
「行こう、月靈」
* * *
「――……?」
ぼんやりと目を開く。光の眩しさに目を細める。
鼻腔をかすめる、師から与えられている辟邪香とは異なる、香り。
もっと艶やかに、凜とした――。
記憶を辿る。――妃と話をしていて、……限界が来て、倒れたのだ。
失態である。
「お目覚めですか」
声がして、はっとする。
閉ざした帳の向こうに、誰かいる。
「――ああ、」
帳を開き、外へ出る。
「誰だ、そなたは」
妃の格好をした、誰かに尋ねる。表情と言い、仕草といい、よくここまで似せられるのだという程に似ている。目の色味が少し違うが、薄暗がりで見たら殆ど見分けが付かないだろう。ただ、本物の皇太子妃が纏う、白虎の守護を持つが故の、圧倒的な“気”は無い。
その誰かは、一目で看破した旣魄にも動揺を見せず、淡々と名乗った。
「璘、と申します。皇太子妃殿下より、皇太子殿下のお世話を命じられております」
妃が用意した
「妃はどうした」
「昨晩まではお側でご様子を窺われていらっしゃいましたが。深更になる前にお発ちになりました」
璘は、簡潔に、現状を説明した。
目覚めはいつになくすっきりしていたが、話を聴きながら、頭がはっきりしてくるにつれて、なんとも言えない気分になった。だが、傍目に表情の変化は無い。
まる一日半以上、眠りこけたということである。妃の閨中にこんなに留まってしまったとは。
一体、何を噂されていることやら……。
だが、お陰で旣魄が倒れたことは、余人にはばれてはいない、ということだろう。
「
「そうか。――なら戻ろう」
手早く身形を整え、
実にあっさりとした反応だった。
皇太子の様子によっては、更なる説明の用意もしていた。
が、皇太子は璘に詳しい説明は求めなかった。それは、何かを察しているからなのか。璘からの説明では信用出来ないと思っているのか。
* * *
「お戻りですか。思ったより早かったですね。――こちらが、お休みの間に溜まった政務でございます」
旣魄は、無言で次々と処理していった。しっかり休養を取ったので頭はいつも以上に冴えていて、あっという間に処理を終えてしまった。と、今度はさらさらと書状を書き上げて、瀏客に手渡す。
「これを、
「殿下?」
「父皇上も、十分休まれただろう。もう回復しているということは知っている。私は、少し出てくる」
「……どちらへ?」
「妃が宮外へ出た。このままにはしておけない」
「御自ら? ……本気ですか?」
すこし間があいて、瀏客は驚いたように尋ね返した。
「何か不思議でも? 他の者に命じては、妃が宮外に出たことが漏れてしまうだろう。それは避けねば、面倒だ。その上、白虎の足に、普通の人間が敵うと思うか?」
「それはそうですが。……随分、ご執心なようで」
「執心……そう、見えるか?」
「去る者追わず、来る者も基本拒む貴方が、そうまで気に掛けるのです。そうで無ければ何ですか」
さらりとこなしたが、皇太子は、一人で、数十人を総動員した半分以下の時間で仕事を終わらせてしまう。恐ろしく有能なのは確かだ。だからといって、真面目という訳ではない。
自分の時間を取られるのを嫌うが故、最低限の時間で終わらせているというのが正しい。暇さえ有れば、片っ端から書物を読むのを好むこの男が、意図があったにせよ、
「その上、貴方の最大の秘密を二つも晒してしまうとは。一体、何をお考えなのです?」
秘密の一つは、銀の髪に銀の瞳、銀の爪という、この外見。もう一つは、倒れたことに関することだ。
特に後者は、旣魄の最大の弱点でもある。なぜそれを、みすみす晒すような行動をとったのか。普段の旣魄ならば、絶対にしない。
瀏客の問いに、旣魄は黙り込んだ。言葉を探すようでもあった。
「……答えなくとも、お前はとうにわかっていそうだが」
「旣魄、」
「『
「!」
異民族出身の、謎めいた亡き皇后。旣魄と同じ、銀色を持っていた、という。
旣魄が昔からその謎の手掛かりを探していることを、勿論瀏客は知って居た。
そんなに気になるのなら、皇帝に尋ねればよい。だが、両者の間でも、亡き皇后の話題が交わされたことは無い。
「
さあっと水の気配が立ち籠め、円を描くように銀の光が床を奔る。忽ち水溜まりが出来る。そこから、ぬっと銀の龍が顔を出す。眉間に皺を寄せて、いかにも機嫌が悪そうだ。体の大きさは、やろうと思えば変えられるので、今は大きめの犬くらいである。
「
「うん?」
「わー!! 冗談冗談!! 起きた!! 起きてる!!」
寝ぼけ半分で応じた浧湑は、笑顔で尋ね返した旣魄の声に、慌てて叫んだ。
「妃の白虎の気配を追ってくれ。戦いたくて仕方がなかった因縁の相手だ。できるだろう?」
白虎、と繰り返した浧湑の気配が、急に殺気立つ。
いきり立つような口吻で「当然!」と浧湑が応えるや否や、既にその気配も皇太子の姿も消えている。
その場に残された瀏客は、旣魄のいた辺りに未だ目をやっていた。
「……気付いているのか? 旣魄」
きく者の無き言葉を、一人、こぼす。
それは腹心の配下としてではなく、苦楽と生死を共にしてきた、友としての呟きだった。
“去る者追わず、来る者も基本拒む”という瀏客の言葉を、旣魄は否定しなかった。実際、旣魄はずっとそうだった。玉鱗殿を鎖して閉じこもり、他者を遠ざけ、“引きこもり”などと人々に称せらるる程に。
――それは、一度内側に入れてしまったものを切り捨てることが出来ない、情の深さの裏返しに他ならない。
例外といえば、生まれたときから共に在る瀏客、師、そして、ともに戦ってきた羽兄弟くらいだろう。
だが、たった今、目のあたりにした、この変化をどうとらえるべきか。
単なる興味か。長年追い求めた、自身の出自の謎を解明する為の手掛かりとしての。
だが、ならば何故すぐ尋ねない。
この一月、確かに忙殺されていたとはいえ、全く皇太子妃宮を訪れる時間が無かった訳ではない。それは、傍に控えていた瀏客がよく分かっていた。
寧ろ、忙しいように振る舞うことで、敢えて避けていたのではないか――。
が、それはあくまでも瀏客の推測に過ぎない。
“……答えなくとも、お前はとうにわかっていそうだが”
口数の多くない旣魄の言わんとすることを酌むことは慣れている。皇太子として振る舞うため、敢えて閉ざしている部分に、当の本人よりも先に瀏客が気付いてしまうことすらある。――だが。
「――さすがに、何でもかんでも分かると思うなよ……」
溜息交じりに、素に戻って吐き出す。
瀏客が云々したところで、結局、真意は旣魄の
ただ、旣魄が傷付くことが無ければいい。
もう一つ息を吐いたあと、瀏客は書状を届けるため、その場を後にした。
* * *
何か、声が聞こえた。そんな気がした。
一体、どれ程ぶりであろうか。気のせいだろうか。
誰かが泣いているような気がした。
否、泣いているのは、自分だろうか。ところで“自分”とは、何だったか。
深く息を付く。度に、体が
誰か――気付いてはくれないだろうか。
苦しくて苦しくて堪らない。
ほんの僅かで構わない。
誰かと一言でも言葉を交わすことが出来れば。
この身に降り掛かる千辛万苦も、少しは慰められよう。
嗚呼、だが一体、誰が気付くだろう。
聞く者のない
一体いつから、ここに居ただろう。
そも、ここは一体どこだろう。
何故、ここにいるのだったか……。
暗澹たる闇は深く。
自分と、そうで無い何かとの境界が曖昧になって、意識が遠ざかる。――沈む。
こぽり。こぽり。
黒いぬかるみが、泡を立て、弾けた。
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