第六

「皇太子殿下!?」 


 受け身を取る余裕もなく、いきなり崩れ落ちた皇太子に驚いた皓月だったが、俊敏に動いて、頭をぶつけるのだけは回避した。


「一体、何が……」


 顔色が悪いという訳でもなく、軽く確認したところでは、呼吸その他の異常も見られない。


 ふと、以前皇太子の居所に忍び込んだときに出くわした巫澂が言っていた言葉を思い出す。


 皇太子は病であると。


 そのため、月に何日かは離宮で過ごすとも。その場をごまかすための言い訳かとおも思ったが、あの言葉は本当だったのだろうか。


 が、考えたところで、医術の専門知識の無い皓月にわかるものではない。それよりも、こんなところでいつまでも皇太子を転がしている訳にはいくまい。さりとて、皇太子が倒れたということを余人に知られる訳にもいかない。


「……致し方ないか。月靈げつれい

『運べば良いのか』


 声を掛けるのを予想していたらしく、返事はすぐにあった。顕現した白虎は、四肢をおり、地面に伏せる。背に載せろ、という事だろう。上背のある(間違いなく皓月より一尺30㎝分は高い)皇太子に手間取りつつ、なんとか白虎の背に載せると、白虎は難なく立ち上がる。


『どこに運ぶ』

「ここから人目につかずに動かすなら、わたくしのところしかないだろう」

『……良いんだな?』


 じっと、何か言いたげな目をして確認してきた。


「何か問題が?」


 含んだ物言いに、皓月は首を傾げる。


『別に。皓月がそれで構わぬのなら』


 が、白虎は、また意味深に言いおいて、のそりと動き始めた。

 閨房しんしつに入り、しんだいの上におろす様に指示すると、白虎はひょいと牀の上に飛び乗り、背中からぼとっと落とした。なんとも雑である。が、皇太子が起きる様子はない。


「月靈。巫澂ふちょうを呼んできてくれないか。極力、気配は抑えてな」

『……青龍どもの巣の中で、無茶を言う……』


 一言零すと、すうっと姿を消した。


 雑に転がされた皇太子の姿勢を楽なように整える。上掛けを被せようと思ったところで、いつものように藍色の斗篷がいとうを身に着けたままなことに気付く。流石にこれだと寝づらいだろう。と、斗篷の紐を解いた。……なんだか、悪いことをしている気分になるのは何故だろう。


 軽く首を振ってから、斗篷を体の下から引っこ抜き、適当に畳んで衣桁に掛けた。ついでに寝心地が悪そうなので冠も外して傍の卓子に置く。

 上掛けを被せて、よし、と一つ頷いた。


 改めて、皇太子の顔色を窺う。

 苦しげな様子も無く、傍目にはよく眠っている様にしか見えないが。

 一応、熱も確認してみるが、ひんやりしている位だ。


 青みを帯びた銀の髪。今は閉じられた銀の瞳。そして、――銀の爪。


“……小月、……この話は、母とそなただけの秘密だ”


「……母皇上は、ご存知だったのか……」


 密かな声が、ただ、落ちる。


「この方が、だということですか……」


(では、なぜ……。)

 

『――連れてきたぞ』


 思考に落ちかけた皓月の脳裏に、月靈の声が響いて、我に返る。すぐ傍らに、白虎の気配が生じる。その背に、男を乗せている。そのまま連れてきたらしい。

 

「巫澂、夜分の呼び出しによく来てくれました」


 時間的に、休んでいるところを叩き起こされたのだろう。巫官の装束に着替える暇も無かった彼は、顔面に巫官が施す朱の紋様もなく、素顔だった。とはいえ、髪も衣服も、簡素ながらきちんと整えられている。いかにも怜悧な官人、といった印象の、すっきりとした面立ちの人物である。


 が、さすがに女人の閨房にいきなり連れてこられたので居心地の悪さを感じているらしく、黒々とした瞳が戸惑いでわずかに揺れている。


「お見苦しい姿で誠に申し訳ございません」


 些か足下をふらつかせながら、拝礼をしてくる。

 恐らく、虎の背に乗る勝手が分からなかったのだろう。馬のそれとは随分違う。


「皇太子殿下がお倒れになったと伺いました」

「ええ。こちらでお休みになっていますので、みてもらえますか」


 皓月は帳を開く。瀏客は立ち上がり、牀に横になっている皇太子の様子を窺った。“医”の字は古く“毉”と書き、巫の職掌は、術によって病を去る要素をも含んだ。現在はそれぞれ専門に分化したが、それでも巫官で医術を学ぶ者は多い。


 瀏客は、色々確認しているようだったが、程なく一つ頷いてこちらを見た。


「特段問題はございません。少々お疲れなのでしょう。自然にお目覚めになるまで、このままにしておいて頂ければ」

「――良くあることなのですか」


 倒れる前の皇太子の様子や、瀏客の落ち着きようからそんな気がした。


「臣からは……」


 言えないということか。まあ仕方ない。


「わかりました。一先ず、殿下は玉泉宮でお預かりします。護衛の方々には伝えておいてくださいね」

「かしこまりました」


 瀏客をまた月靈に送らせてから、皓月は隣の房へ移動した。皓月が日常を過ごす居室だ。こちらにも、軽い午睡などに使うながいすが置かれている。上着を脱いで腰掛けた皓月は、横になって天井を見上げた。


 すっかり計画が狂ってしまったが、皇太子をあのまま放ってもおけなかったのだから仕方あるまい。

 だが、もう少し様子を見て大丈夫そうだったら、当初の計画を断行するもやむなしである。こうしている間にも、事が動く可能性は十分にある。


 話がある、という皓月の文に対し、二日待って欲しい、と皇太子は返答してきた。

 彼は、この状況を予測していたのだろうか……?

 考えている内に疲れを覚えた皓月は、今日はここで寝ようと決める。


「月靈」


 呼んで傍らを叩く。のそりと榻に上がって皓月の傍らにくるまった白虎の、もふもふの毛にもたれる。


 こちらでは、極力月靈の姿を表に出さぬよう、特に最初の頃は気を遣っていた。今は、皓月の自室には多少現れるが。国では、常に虎の姿でどこへでも連れ歩いていた。颱では“老虎”と呼んで、大人も子供もその白い霊獣を敬いと親しみを持って接していたが、ここでは違う。ここは青龍の国。月靈は、姿を見せるだけで、威嚇と取られかねないのだから。


「月靈……窮屈な思いをさせる」

『皓月の居る場所が、我の居る場所故。気にすることはない』


 睡りは、すぐに訪れた。


   *


 翌朝、目覚めた皓月は、手早く身形を整えると、皇太子の様子を窺いに閨中を覗いた。皇太子はまだ目覚める様子はない。瀏客の話では、自然に起きるまで待てということだったが、一体どれくらい待てば良いのだろうか。


「皇太子妃殿下、お目覚めで――」                                    


 東宮女官長の雨霄の声が聞こえて、皓月は慌てて帳を閉じた。


「お、おはよう、雨霄」


 彼女は、何か焦った風の皓月を見て、また皓月を見た。そして、何かを察したかのごとく、物凄くいい顔をした。どちらかと言えば冷静な雰囲気の雨霄には珍しい、満面の笑みである。


「これは――失礼致しました。どうぞごゆっくりお休み下さいませ」


 そのままの姿勢で後退し、出て行ってしまった。


「――え? 休む?」


 奇妙な動作にぽかん、と呆気にとられた皓月は思わず零す。


 背後でわずかに、皇太子の身じろぐ気配がした。が、単に寝返りを打っただけだったらしい。まだまだ目覚める様子はない。

 起きている彼は相当手強いが、今ならあっさり殺せそうなほどに、無防備である。見れば見る程、整いすぎて妙に落ち着かないような、腹が立ってくるような御面相だ。


 そんなことを思いながら皓月は、満面の笑みを浮かべて去って行った雨霄を思い出していた。


 そして、眠っている姿までも画になる皇太子を見下ろし、彼の金の龍方冠が傍らの卓子に置いて有るのを見た。


 やや間があって、皓月はやっと気付いた。


(こ、れ、の、せい、か――!!)

 

 帳を覆うだけで安心してしまった。

 雨霄は衣桁に掛かっている、明らかに皓月のにしては大きすぎる藍の斗篷だとか、皇帝と皇太子にしか許されぬ金の龍方冠で、分かってしまったのだろう。

 皓月が、帳の奧に、誰を隠したか。


 その上での、あの満面の笑みである。


「……えっと、……これは、違う。否、違わない? 月靈、どうしたらいいんだ」


 今更ながらに狼狽えた皓月を見て、傍らで月靈が冷めた声音で応ずる。


『確認しただろう。“良いんだな?”と』

「――そう言う意味ならそう言え!」

『皓月が鈍いだけだろう。我より疎いのは、どうかと思うが』

 

 しれっと言い返した白虎を、顔を真っ赤にしながら皓月はにらみ返したものの、言われた通りだと思えば、それ以上、言葉が出てこなかった。

 そんな皓月の表情を淡々と見守っていた白虎は、少し首を傾げた。


『……というか、昨日から、少し、混乱しすぎてよくわからん感じになっているんじゃないか? 色々あったからな。こういう時こそ落ち着かねば』

「そう、……だな」


 肯いて、皓月は月靈の毛並みを撫でる。幼い頃から、落ち着くにはこれが一番である。


『一先ず。もうこのまま、人払いをしておけばいい』

「何を、……」

『皇太子が倒れたなどと広められる訳にいくまい。そなたらは正式な夫婦なのだから。声を掛けるまで近づくなとでも言っておけば向こうで察してくれるであろう』

「……い、色々って……」

『色々は色々だ』

 

 言って、白虎は、にやりと笑った。

 

   * * *


 色とりどりの玻璃がらす細工を凝らした窓越しに差し込む月華が、五彩の影を落としている。その下に設けられた白い祭壇の前に、一人の女人が蹲っている。


 美しい雪白の髪は星の光を集めたように淡く輝き、祈りを捧げる目元は長い銀の睫毛に縁取られ、しずかに閉じられている。乳白色の肌は、真珠の粉をまぶしたように柔らかに輝き、彼女が纏う白い衣と相まって、彼女自身が淡く光を放っているようであった。


「――こちらにいらっしゃったのですね、皇太子殿下」


 睫毛が震え、金緑の瞳が露わになる。伏し目がちに開かれた瞳が、声の方を向く。


「……敬義けいぎ……」


 すっと礼をした男を見下ろし、彼女は手を差し出す。


「――あなたは、わたくしを恨んでいる……? 姐姐お姉様からあなたを奪ったわたくしを。或いは、あなたから、姐姐を奪った、と言うべきかしら……?」


 手が重なった瞬間、そう尋ねた彼女に、男は目を伏せ、堅い声で一言。


「……全ては、殿下の御為に」



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