第五

母皇上ははうえが行方不明!? ――どういうことだ」

「私もあんまり詳しく知らないんだけど。母上が風で教えてくださったところだと、盧梟ろきょうと交戦していたところに皇上がいらっしゃって、兵達を励ました。その夜、白虎だけを伴って玄冥山げんめいざんにお入りになって、それっきり」

「玄冥山。――厄介な場所だな」


 たいの北部に位置し、盧梟との境目近くにある山であり、禁足地となっている。が、盧梟はここを度々狙って仕掛けてくるのであった。

 

「そう。禁足の山だから、入るにも難しい。かといって、このままにもできない。捜そうにも、母上は易王いおうの監視があって動けないし、皇上がいらっしゃらない以上、皇太子殿下が皇宮を離れることはできないだろうし」

「……斌王母上では、玄冥山の捜索など無理でしょうしね」


 皞容こうようの言葉を継いで、燕支えんしが言う。斌王ひんおうは昔負った傷が原因で足が不自由だった。


「――そなたはどう見る?」


 皓月は己の白虎に尋ねる。いつの間にやら皓月の足下に、顕現してきていた。尋ねれば、皓月と同じく、神秘的な金緑の瞳をすがめ、如何にも尊大そうな所作で頷く。

 

『距離がありすぎて、はっきりとは気配を辿れぬ。ただ、尋常の事態でないことは確かだろう』

「そうか。……少し待っていてくれ」


 皓月は立ち上がり、文房へと移動する。墨を用意させ、手早く尺牘ふみをしたため、書き漏らしがないことを確認すると一つ頷いて折りたたみ、女官を呼んだ。

 ふと思い立って、傍らの花瓶かへいに活けられた花を添えた。


雨霄うしょう。これを皇太子殿下に。――急ぎで」


   * * *


 颱との交渉を、ひっそりと玉座の奧に用意された小部屋から見届けていた浩の皇太子・水適すいせき――旣魄きはくは、一人、東宮に戻ってきた。その部屋は、かつて、幼帝が立ち、皇太后などが垂簾聴政すいれんちょうせいした時、その控えの間として用いられていた場所である。防衛上の問題があるとして閉じられていたのだが、数年前に密かに皇帝の指示で開かれた。旣魄がそこから朝議の様子を見ていられるようにである。都合の良いことに、臣達からはよく見えないが、こちら側からよく見えるような造りをしている。


 楊宰相・貴仁きじんには、交渉について事前に指示を出していた。彼のことは、東部にいた頃から知っていた。巫澂ふちょうこと祁瀏客き・りゅうかくの父、祁弘烈き・こうれつの知己であり、弘烈が失脚して自殺に追い込まれたとき、関連を疑われ、地方に左遷された人物である。が、如才のない彼には、簡単な指示で事足りた。概ね満足な結果は引き出せたと言えよう。

 

(その件よりも、今はこちらだ……)


 旣魄は、上がってきた報告書を眺める。


 ここ最近起こっている連続殺人事件の報告書である。

 これまで被害に遭った者達に、直接的な関連性は無かった。が、ここで初めて、関連のある人物が、昨日殺された。今回の事件で、最初に殺されたと見られている窈王妃の夫である窈王だ。まだその死は伏せているが、それも限界がある。

 手口は同じ。心臓を生きたまま引きずり出され、殺されている。心臓の行方は不明。他に殺された者達との違いを言うなら、抵抗した痕跡が全く見られない。ということ。

 

 盲目であったためなのか。それでも、幽閉の身で、目の前に何者かが現れれば、当然警戒するだろう。生まれつき視力の無い彼は人一倍、気配に敏かった。そんな彼が、抵抗もなく殺されたということは、相手は窈王が警戒しない、よく知った者ということになるだろう。

 遺体の状況を鑑みるに、殺された時、窈王は立っていた。そして、己を殺した相手と向かい合っていた――。


 旣魄は柳眉を寄せる。

 あまり、。今の内に、最善の方法を考えて指示を出しておかなければならない。

 

 ふと、父皇に誅される直前に叫んでいた周貴妃の声が脳裏に蘇った。


“生まれてすぐ、離宮へと追いやられたお前は知らないでしょう。あの女が後宮に入ってから、凄惨な事件が相次いだこと。宮中が混乱したこと。――どれだけの者が、恐怖に怯えたか。忌々しい、銀色のあの女が――っ”


「…………」


 周貴妃が旣魄に投げかけた、件の事件について、当時の記録を調べた。手口などは今回と、ほぼ同じだった。あの言いようは、母后の入宮と、その事件に関連があったと考えているらしかった。当時はそのように噂されていたのかも知れない。それが窺える記録は無かったが。あったとしても、恐らく父皇が処分させたことだろう。

 

 思い至ることがあって、旣魄は筆を取り、書状を作成し始めた。


 その時、どたどたと跫音あしおとがして、こちらにやってくる気配がした。

 あの跫音は、衛官の羽騎う・きだろう。旣魄はそのまま筆を走らせ続ける。


「――皇太子妃殿下が、祖国から来た男を東宮に連れ込んでたんだけど!?」


 果たしてやってきた羽騎は、開口一番、大声でそう言い放った。


 内容にか、羽騎の声の大きさにか、旣魄は、今まさに書いていた紙の上に筆を落としてしまった。筆は既に書かれた文字の上を転がり、筆の柄を墨で汚しながら、逆に穂先の墨が書面を汚す。

 

『……あ、』


 旣魄と羽騎、二人の声が重なる。

 すぐに旣魄は筆を持ち上げ、筆牀ふでおきに掛けた。控えていた巫澂ふちょう――瀏客りゅうかくが立ち上がり、紙を取り替え、筆を清めた。旣魄は筆を持ち直したが、もの言いたげな雰囲気の羽騎の様子を察して再び筆を置いた。


「……一体、何の話だ」

「皇太子妃殿下が、使節の中にいた男を見て、ものすご~く嬉しそうに名前を呼んで、仲良く腕組んで東宮に戻って行ったんだって」


 声は深刻そうだが、その実、面白がっている。その口の端がひくついて、笑いたいのを必死に堪えているといった風情である。本当なら笑い事ではないのだが。


「……」


 旣魄は、使節の出迎えはせず、最初から室内に引っ込んでいたので、皇太子妃が使節の中にいた皞容を発見して連れて行ったところを見ていなかった。その側に控えていた瀏客も同様である。


 静かに黙り込んだ旣魄に、羽騎と瀏客は、それぞれに彼の様子をうかがった。彼は、端座したまま物思うように目を細めて、一言。


「……何と、呼んだ」


 淡々とした声音だが、羽騎は背筋が寒くなったような気がした。


「え、っと……確か、“皞容王子こうようおうし”って呼んでたような……」

「……そうか」


 彼は短く頷くと、また筆を執って何事もなかったかのように書状を書き始めた。一瞬、凍った様な空気は霧散し、跡形もない。

 目の前で記されていく、宛ら流水の如き筆跡は、見事としか言い様のない美しさで、典雅な格調高さを感じさせる一方、動的な力強さも備えている。手早く文面をまとめ上げ、印を押し、そのまま別の書状を書き始めようとした旣魄に待ったを掛けたのは、やはり羽騎だった。


「――いやちょっと、そこ流しちゃいます!? 『そうか』って」


 旣魄は、無表情のまま、軽く首を傾げる。その何気ない動作も、絵に描いたような麗しさである。


「……とくに問題はないと判断したが」

「どこがどう問題がないんです!? 浩の諸臣はもとより、颱の使臣達だって驚いてましたよ?」

「――男ではない」

「はい?」

「――『皞容王子』。そう呼んだのだろう? ならその人物は、颱帝の皇妹である廉王れんおうの息女・風皞容殿だろう。懐かしい姉君に会えたのなら喜んで招いても不思議はない。私がとがめ立てすることではない。客人を招く権限は妃に渡してある」

「え!? あれ女の人だったんですか? どっからどう見ても、爽やか系の美男子でしたよ。武官姿でしたけど、なんかこう、品のある――“貴公子”という感じの。髪はこんなに短かったですけど」

「武官姿? ……ああ。そういうことか」


 旣魄は、一連の誤解が起こった所以に合点がいった。


「“王子”の称号は、浩では男子にしか使わないが、颱では王の子には男女関係なく与えられる。その上、颱の武官の三割は女人だ。一方浩は武官といえば男子だからな。その辺りの思い込みで生じた誤解だろう」


 浩と颱は、こうという同じ国から分かれた国のため、基本的には同じ言語を用いて生活している。が、やはり数百年にわたって別の国として分裂して辿ってきた歴史の違いや、統治構造の違い、東西の違いや風俗の違いから生じた違いが、思った以上に存在する。


 巫官の巫澂に扮し、皇太子妃としての教育のためという名目で妃の元に通った数ヶ月、言葉を交わす中で学んだことである。


「それに確か――皞容王子は確か『みのたけ 凡そ五尺九寸177㎝』だったか。確かに……女人にしてはかなり高いだろうな」


 一般に、颱人より浩人の方が男女ともに身長は高い。颱の女人といえば、大体五尺150㎝前後と聞く。


「身長? ……なんでそんな、妙に詳しいんですか。会ったことがあるとか?」

「ある訳がない。だが――妃の親族関係くらいは、把握しておくものだろう。入宮前の調査報告書に書いてあった」


 淡々と応じたが、目に見えて羽騎は厭そうな顔をした。


「そんな直接関わりそうもない人まで……相変わらず、記憶力良すぎて気持ち悪いですね」


 記憶力の良さは生まれつきのものである。

 特に覚えようと意識せずとも、一度でも見聞きしたことはみな覚えてしまうのだ。


「あ~ああ。折角この間みたいに焦る殿下が見れると思ったのに。あっさりしすぎて面白くないですね……」

「それは残念だったな。……だが全く無問題とも言えないか」

「そうでしょうね」


 ずっと黙っていた瀏客が口を開く。頷いた拍子に、冠から顔面を覆うように垂れ下がる連珠が涼やかな音を立てた。


「事実はどうあれ、臣達がそのようにとらえてしまったというのは問題かと。それに、颱側の使臣団が驚いた様子だったというのも」


 疑惑を受けたと知ったときの、妃の狼狽えぶりを想像して、ほんのわずかに旣魄は笑った。本人は気付いているのか、いないのか。それを、うっかり見てしまった羽騎は、普段の冷厳な雰囲気との落差に目をむいた。が、口には出さなかった。 


「――夜には宴がある。そこで楊宰相にうまくやってもらえばいい。あちらに届ける書状も今終わらせてしまうから、一緒に届けてくれ」

 

 言うと、旣魄は新しい書状に楊宰相への指示を記す。

 それからまた黙々と執務を再開した。飛ぶような速さで、書状に目を通し、裁可を下していく。


「いつも思うんですけど。……あれ、本当に内容頭に入っているんですかね」


 その様子を端で眺めながら、羽騎がひっそりと瀏客へと尋ねる。瀏客は、未決裁の書状を見やすいように並べながら応ずる。


「勿論ですとも」


 同様にひそひそ声で返した瀏客に、旣魄が書状を渡した。


「これらは再考。どこが問題かは朱筆した。その三枚目のは、数字が今年のではなく、昨年のものになっている。……何でここまで上がってこられたんだか。速やかに確認するように伝えろ。あとこの山は終わったから持って行っていい」

「かしこまりました」


 唖然とした羽騎に、瀏客は肩をすくめて見せた。 


「……ますます気持ち悪い……」

「何か言ったか」

「――何でもないです!」


 瀏客が出て行くのと入れ替わりに、羽厳う・げんが入ってきた。羽騎の兄で、同じく衛官・太子備身である。


「皇太子殿下、ただいま玉泉宮ぎょくせんきゅうから女官が参りまして、こちらをお預かりしました」


 玉泉宮とは、皇太子妃宮のことである。

 羽厳が差し出したのは、一通の尺牘てがみだ。そこに結びつけられた一輪の花に、目元をわずかに動かした。今朝方、妃に贈った花である。


 現状を鑑みれば、見るのは後にすべきだが、受け取るがままに開く。妃から文を寄越してくることなど、滅多にない。

 わずかな空気の揺れに立ち上る、夜闇に清雅な白い花を咲かせる、大輪の月来香の甘やかな香り。――それは、妃が愛用する香だ。


 果たして差出人は、先程話題に上がっていた皇太子妃その人であった。


 急いだためか、優美ながらも、女人にしては聊か以上に勢いのある筆致でただ一文が記されている。


 曰わく、話があるので時間をとって欲しい、というもの。旣魄は帳で覆われたそうへと視線を寄越す。――深淵の闇の中でも、真昼の如く見通せる彼は、その一方、日の光が苦手だった。余りに明るすぎるのである。昼に出歩こうと思ったら、日差しを遮る布で目元を覆って、やっと、という程である。故に、彼の住まう玉鱗閣ぎょくりんかくは分厚い帳で日光を遮り、真昼でも暗い。故に普通の人間は、灯りを灯さねば歩けぬ程だった。普段から旣魄の傍にいる瀏客と羽兄弟は慣れたものだったが。


「……今、何時なんときだ?」

「まもなく酉の刻にございます」

「それでは……間に合わないな……」


 ちょうど宴が始まる時刻である。その後では、今度は旣魄の方に問題があった。


 旣魄は筆を執り、返答を認めた。

 

   * * *


「――何ですって!?」


 文を預けた皓月が客庁に戻ってくると、なぜか皞容が燕支に詰め寄られていた。おっとりとした口調が完全にとれている。


「……あなた、他の人たちに自分が女人だって言ってなかったの?」

「……だ、だって、……浩行きの武官は、向こうに合わせて、男が基本だって……『そなたなら誰も怪しまない』って、幽、寂……先生、も……実際、誰も気付かなかったし……訊かれもしなかっ、た、し……」


 ガクガクと、肩をつかまれて前後に振られた皞容は困ったように眉を提げながら弁明していた。が、その内容に、皓月も顔色を変えた。

 道理で、先程皓月が皞容に声を掛けたとき、颱の者達も驚いていた訳である。


 端から見たら、若い青年武官をはしたなくも自宮へ引っ張り込んだように見えた筈だ。


 皞容が髪を染めた上、短くしていたことも、武官としてやってきたことも、身分を隠して喬姓を名乗ったことも、皓月が彼女に“王子”と声を掛けたことも――全てその疑惑を深める要因にしかなっていない。


「……ここで気付いて、良かった、と言うべきだろうな……」


 皓月は、乾いた笑みを浮かべた。



 二人を一先ず帰し、大慌てで入ってきた女官達に、これでもかと飾り付けられた皓月は、宴に放り込まれ、とにもかくにも疑惑を解いたのだった。

 それには楊宰相が手助けをしてくれたのだが、彼の目がなんとなく、生暖かいような気がした。


 くたくたになって戻ってきた皓月だったが、皇太子からの返事を見て、すぐさま行動を開始した。

 昔からの習慣で、皓月は文房の机案の引き出しに、いつでもすぐに飛び出していける準備をしている。母帝の命で、「今すぐ行ってこい」というようなことが頻繁にあったからだ。身軽な衣に着替え、嚢槖荷物袋を背負い、隠していた長剣を持ち、皓月は己の宮殿を飛び出した――ところで、あっさり皇太子に見つかってしまうのだった。

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