第三
※皓月が東宮を飛び出そうとする数日前のお話です※
―――――――――――――――――――
びゅう。
鋭い音を立てて飛来した矢が、的の中心に突き刺さった。
「――ねえ。
「は?」
藪から棒の言葉に、手が滑る。第二矢が弓弦を離れ、的へ向かう。
が、狙いを大きく逸れて虚しく地面に落ちた。
「……あ」
広大な東宮の端の庭園。その深部にひっそりと人目を避けるように作られた、練武場である。慎が発見してきた。東宮の主――皇太子が使っているのかいないのかは不明だが、手入れはきっちりされており、道具の状態もいい。先日の怪我で、皇太子妃宮での安静を医官から言い含められていた皓月だったが、ここ数日は、このようにこっそりと出てきていた。騒ぎになるといけないので、替身として、皓月の配下の“影”の一人・璘を置いてきている。
「……なぜ突然そんなことを?」
「また、犠牲者が出たとか」
現在、浩の皇宮では、半月ほど前から殺人事件が頻発していた。
「――あの甲斐性無しに任せておりましたら、命が幾つあっても足りのうございますわ」
扇で口元を覆いながら、おっとりと言うのは、皓月とともに侍妾としてやってきた、
姓が皓月と同じ「風」であることから窺えるように、皓月の血縁関係のある従妹だ。颱においては、皇帝のすぐ下の妹・斌王の子で
因みに、皓月と皦玲の入れ替わりを知る数少ない人物でもある。
「……一応訊くけれど」
「何でございましょう」
「その“甲斐性無し”って、誰のことを言っているんだ……?」
直後、燕支の笑みがぞっとするほど深まった。
「勿論、決まっておりますでしょう。――我らが東宮の主ですわ」
一切躊躇いも遠慮もなく、おっとりときっぱりと言い切る。
「燕支……そんな言い方をしては駄目だ。誰に聞かれているか」
「事実を言ったまでですわ。色々なご事情がおありと伺いましたから、最初から五ヶ月目位までは多めにみましょう。御自ら、姐姐を助ける為に動いていらっしゃった事も評価致しましょう。――ですが」
あくまでゆったりと言葉を紡いでいた燕支が、次の瞬間、蜂蜜色の瞳を煌めかせた。
「――この上更に、一ヶ月も放置します!? わたくしの神女のように美しい姐姐を! あの――」
これ以上言わせていると、更に色々駄目な言葉が出てきそうな予感がして、皓月は咄嗟に燕支の口を塞いだ。
「そこまで。落ち着きなさい」
低く言う。が、頬を赤くした燕支の様子を見て、力を入れすぎたかと慌てて手を離す。
「……苦しかったか?」
「……いえ。大丈夫ですわ。それにしても、いったいどなたが、何を思ってあのような――惨いことをなさっているのでしょう」
一連の事件の被害者の遺体には、共通した、ある特徴があった。
いずれも、心臓を奪われ、胸に穴が開いた状態で見つかっているのである。
一体、誰が、何のために、そのような惨いことをしたのか。そして、奪われた心臓はどこに行ってしまったか。
何を想像しても、胸の悪いものにしかなるまい。
「遺体の傷から、獣の仕業では、という意見もあるようだが。皇宮のど真ん中に堂々侵入など、あり得ないだろう」
その最初の被害者は、先だっての事件で捕縛された、窈王妃である。
「恐ろしい話ですわね。いっそ、本当に獣なら、矢で射てしまえばおしまいですが。事はそう単純ではないのでしょうね」
事件は、激しい雷雨の夜に起こった。
発見したのは、食事を運んだ宮女だったが、あまりの凄惨な光景に気を失ってしまった。彼女が上げた悲鳴は、激しい雷霆の音に掻き消された。
配膳に向かったまま戻ってこない宮女を不審に思った獄吏が、彼女を発見し、事が明るみになった。
なお、窈王妃だけは遺体ごと消えており、遺体を見たのは、最初に発見した宮女ただ一人である。
窈王妃を幽閉していた牢の外部に面した側の壁は崩れ、金属製の枷が引きちぎられるように歪んだ状態で放置されていた。
発見者である宮女が、窈王妃の胸から大量の血が流れていたと証言していることから、最初の犠牲者と目されている。また、牢の中に怪しげな影があったことも証言している。が、暗闇だったのと、窈王妃の遺体の方が衝撃的だったため、影が何者であったかまではよくわからなかった、という。
宮女に疑いがかからないでもない状況ではあったが、仮に殺害が可能であったとしても、状況から見て、返り血も浴びずに事を成せるとは思われない。が、宮女の衣服にその痕跡はなかった。その上、女の細腕で、壁や枷の破壊など、道具もなしにはできまい。故にすぐに疑いは晴れた。
弓を置こうとした皓月を見て、燕支が首を傾げる。
「姐姐。まだ一矢、残っておりますわよ」
「二本目を外した時点でわたくしの負けだ」
「あら。わたくし、まだ一矢も射っておりませんけれども」
「燕支が外す訳無いだろう。――だが、勝負を途中で投げるのは、わたくしではないな」
皓月は再び弓と矢とを持ち、決められた位置に立った。
呼吸を整え、狙いを定め、風波を捕らえ、機を掴み、――放つ。
飛来した矢は、既に的の中心に突き刺さっていた第一矢の
「すばらしいですわ――では、わたくしですわね」
ゆったりとした声音で言うと、微笑みを浮かべたまま、矢を三本持ち、第一矢を番え、放つ。そのまま、直ぐに第二矢、第三矢を立て続けに放った。
矢が的に当たる、小気味の良い音がほぼ間を置かずに響く。
それは、皓月が先に射た一本目の矢と三本目の矢とを貫通し、その後放った二矢も、それぞれ前の矢をきれいに射貫くように突き刺さる。弓を引く力は言うまでもなく、その連射速度といい、精確性といい、どれをとっても完璧である。
「お見事。――やはり弓射では、燕支にかなわないな」
「うふふふ。それでも、実戦では到底お姉様にはかないませんわ」
皓月に褒められた燕支は、幸せそうな甘い笑みで応じる。
「――こんな中で颱の使臣団が来るとなると、浩の方々も気が気ではないでしょうね」
皓月の輿入れの際、同行した使臣達と、浩側で政治的な取り決めが様々なされた。今回は、それを受けての双方の状況確認と調整、そして、皓月たちの達の様子を見るための訪問だという。
「――代表はまたこの間と同じ、
「いや。……おそらくは宜王だろう」
この間、というのは、皓月が浩の皇太子宮にやってきた時のことである。
柳虔誠は、長らく外交に与ってきた老臣である。大分前からそろそろ引退を口にしていたが、母帝がなかなかそれを許さなかった。さすがに国外へ使いするのは今回が随分久しぶりだったというが、颱の皇子の輿入れに際し、「これを最後に」と奏上して許されたと聞く。
「まあ、そうよね。……でも、宜王って……ご存じでいらっしゃるの?」
「わからない。わたくしは当然言っていないし、話す機会もなかった。母皇上や皇太子殿下がおっしゃっていなければ、知らないだろう」
燕支が尋ねているのは、皓月の皦玲の入れ替わりの件について、宜王が知っているか、ということだ。
おそらく、宜王は、颱の代表として、皇太子妃や侍妾達との面会を求める筈。
「だが、宜王の明敏さなら、間違いなく、すぐ気付くだろうな」
宜王は、名を
母帝が皇太子の頃から仕え、「皇の右腕」とも称された程の側近中の側近である。ところが、十七年程年前、突如王に冊封され、実質、遠ざけられた。
「まあ、特に問題は無いだろう。むやみやたらに言いふらすような方ではない」
「わたくし、宜王のことはよく存じ上げませんけれど。――あの噂って、本当なの?」
燕支の問いに、皓月はゆっくりと肯いた。
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