第二

 皓月こうげつは、闇に紛れる黒い衣を纏い、足音も忍ばせて奔る。

 闇深い、明日は朔月しんげつという晩である。


 警備の位置は熟知している。何度も己の配下の“影”――しんに確認した。

 ただの姫君なら、到底飛び上がることなど考えようもないほど遙か高く聳える塀を、一足飛びに飛び上がる。白虎の風に乗ってしまえば、追いつくことは容易ではない。のだが。


「どちらに――いらっしゃるおつもりですか?」


 その背に、語りかける声があった。

 ぎくり、と皓月は足を滑らせた。そのまま、落ちる。咄嗟に、着地の為に身を捻ろうとした。


「――!?」


 かすかに木蘭の香りを含んだ辟邪香へきじゃこうの香り。

 身を返すよりも先に、中空で抱き留められた。そのまま、殆ど音もなく着地する。 


 ゆっくりと顔を上げれば……、今、できることならば一番見たくない顔が目の前にある。


 やってしまった……と、皓月は視線を泳がせた。


「お怪我はございませんか?」


 冴えた月を思わす美貌に、柔らかに微笑んでこちらを見下ろすのは浩の皇太子・水適すい・せき。皓月の良人である。落ちた皓月を受け止めてくれたらしい。


「皇太子殿下。あ、ありがとうございます」


 気まずさを押し殺しつつ、なんとか礼を言いはしたが、彼が皓月に声を掛けなければ、足を滑らせることもなかった。


「な、ななななななななな、なぜ、ここに」


 挙動不審に尋ねる皓月に、皇太子はやはり、にこやかに答える。


「白虎の気配が動いたので、様子を見に。――私の青龍は、白虎の気配に殊更に敏感ですので」

「お忙しい皇太子殿下がみずから動かれる必要などございません。……ところで」


 やっと気を取り直した皓月は、腹が立つほどに秀麗な皇太子の顔を見上げる。無性に形のよい白い頬をびろんびろんに伸ばしてみたい衝動に駆られる。が、勿論、思っただけである。


「そろそろ、下ろしていただけますか」


 落ちてきた皓月を受け止めたまま、いっこうに下ろそうとするそぶりのない皇太子に言うが、彼は微笑みを浮かべたままである。


「――さて、どうしましょうか」

「お忙しい皇太子殿下のお手を煩わせる訳には参りません」


 吐き捨てるように言って顔を背ける。

 雪白の髪が揺れ、耳元に挿した紫色の花が揺れる。それに目をとめると、彼は笑みを深めた。


「ああ、つけてくださったのですね。よくお似合いです」

「……女官たちが勝手にやっただけです」


 皓月は諦めたように息を吐きながら答えた。


 第四皇子である窈王ようおうが、皇帝暗殺を謀り、その上、兄皇子達の殺害を謀った先日の事件で足の骨を折って以来、これまでの放置が嘘のように、毎朝のように皇太子宮から皓月の元に、花が届けられた。

 それを皓月の髪に飾るのを、官女達は(なぜか)とても楽しみにしているらしい。そのため、柄でも無いと思いつつ、止めるのも気が引けた皓月は、結局彼女たちにされるがままになっていた。


「ところで。医官の話では、まだ安静が必要だと伺っておりましたが?」

 

 ぎくり、と皓月の肩が上がる。

 いつも通りの笑顔なのだが、妙な圧がある。まだ暑さの残る時分だが、寒気のするような。


「もう痛みませんから。まったく」


 なお、足の怪我は一週間もしないうちに痛みも引いてしまった。結構激しい動きをしても問題ないので治ったのだろう。と、医官が聞いたら顔色を変えそうな独り言を、頭の中だけで零した。


  *


 白虎を国の守護に戴く西のたい国と大陸を二分する、青龍を国の守護に戴く東のこう国。大陸の覇権を巡って、数百年に亘り激しい闘争を繰り返してきた颱浩両国が、浩の皇帝からの申し出で、突如同盟を組むことになった。その証として、浩国は皇弟の易王いおうを颱帝のとして差し出した。一方、颱国からは女帝の子たる皇子こうし(浩風に言えば皇女)を出し、浩の皇太子・水適すい・せきに娶せた。


 本来であれば、第二皇子の皦玲きょうれいが嫁ぐ筈だった。が、故あって、皇太子であった第一皇子たる皓月が、皦玲の代わりに浩に嫁ぐことになってしまった。が、皇太子である皓月が、そのままの身分で浩に嫁ぐ訳にはいかない。そこで、第二皇子の皦玲として、浩へ嫁いだのである。


 両国の朝廷のみならず、国中に激震が走ったこの婚姻は、反発の声が多いにもかかわらず、両帝によって断行された。

 

 誰もが不思議に思った。

 

 国同士で戦わず、ただ協調路線を保とうとするだけならば、わざわざ同盟を組む必要はない。何しろ十数年来、両国での戦闘はほぼない。現状維持だってよかったはずなのだ。

 颱と浩と、大国同士が同盟を組むというのなら、当然、何らかの利害が絡んでいるはずだ。そうでもなければ、わざわざ仲の悪い同士で組むこともない。

 

 一体、なぜ同盟だったのだろうか。


 その答え――つまりその害、ないし利は、皓月にも未だ、はっきりとはわからぬままである。

 

 皓月はもとより大反対だったこの婚姻。

 相手が敵国であるということも勿論あった。が、それ以上に反対した理由は、彼の皇太子が“引きこもり”ともっぱらの噂だったからである。亡き皇后が産んだ唯一の嫡出の皇子であるものの、一切臣下の前に姿を現したことがなく、生きているかどうかすら怪しいという。そんな得体の知れない相手に、大切な妹を嫁入りさせることなど到底できない。そう思っていた。


 浩に来てみれば、初っぱなから皇太子にをすっぽかされた。

 “引きこもり”と言ってもやはり、国の面子がかかった場ならば現れるのでは、というかすかな期待はあっけなく崩れ去った。こちらから出向いても門前払い、である。そこへ、皇太子と対立する周宰相・周貴妃一派をはじめ、様々な者達から嫌がらせを受けた。好意的だったのは、東宮の官女達と、皇太子が教育係にと遣わしてくれた巫澂ふちょうだけだった。


 そんな中でもなんとか過ごしていたが、突如、皇帝暗殺未遂の嫌疑を掛けられ、幽閉された。


 幽閉された黒宮では、幽鬼にそそのかされた尚王妃しょうおうひによって黒宮に火がつけられ、皓月は命からがらの目に遭った。そこへ漸く現れたのがこの、麗しくも銀髪・銀目・銀爪という特異な容貌の皇太子である。


 教育係として皓月のもとに来ていた巫澂が、皇太子本人だったのである。


 本来、浩国の皇子というのは、青い髪に青い瞳というのが基本である。

 この色味を持つ者だけが、“青龍の守護”を持ちうる“皇子”となることができる。しかるに、皇太子はどこにも“青”を持たなかった。

 しかし、なぜか“青龍の守護”はある。

 それ故、人々から姿を隠して生きてきたのだと知った。


 周貴妃の子であり、対立派閥に属する尚王と手を組んでいた皇太子は、密かに調査を進め、皇帝暗殺未遂の黒幕が第四皇子の窈王だと突き止めた。決戦の末、二十七年前の皇后の殺害を認めた周貴妃が皇帝に誅殺され、窈王および窈王妃らは捕縛されたのだった。


 窈王の仕掛けた毒のため、未だ体調の優れぬ皇帝に、監国として国政を任された皇太子は、皇帝が倒れている間にたまったもろもろの政務、窈王達の一件、周宰相および周貴妃一派件の事後処理などで、非常に多忙だった、……らしい。


 浩では女は政に基本的には携わらないので、細かいところまではわからないが。


「痛むにせよ、痛まないにせよ、お一人で行動されるとは。いくら妃が白虎の守護を持ち、優れた武術の才をお持ちとはいえ――今、皇宮がどのような状態か、お聞き及びでしょう」

「勿論です。ですが、ご心配には及びません」


 皇宮では最近、連続殺人事件が起こっていた。


 その最初の被害者は、事もあろうに、監獄に入れられていた重罪人――窈王妃であった。その後、皇帝の見舞いに来ていた公主。府庫の官吏。採用されたばかりの幼い官女。食材をおさめに来た賈人しょうにんと、立て続けに殺されているのが発見された。身分の上下、老若男女は問わない。発見された場所もバラバラである。が、彼らには一つ共通点があった。その共通点が故に、皇宮中の人々を震撼させていた。


「そういう訳には参りません」


 そのまま皇太子妃宮まで運ばれた皓月は、客庁の長椅子の上に下ろされた。背もたれの付いた、客人を接待するための座臥具である。座面の中央に脚の短い卓子を置き、茶菓子等を置けるようにしてある。


「――先刻下さった、文の件でしょう」


 皇太子は、立ったままだった。

 彼に用があった皓月は、文を送っていた。が、返答は「2日待って欲しい」というものであった。余程忙殺されているのだろうが、急いでいた皓月は、2日も待っていられなかった。寧ろ、その忙しさを幸いに、抜け出すことを決意したのである。替身影武者まで用意の上だ。


「なんのことでしょう。少し散歩にでようと思っただけです」

「散歩。……こんな夜中に、お一人で、剣まで持って、ですか?」

「……」


 皓月の目が泳ぐ。皓月は剣だけでなく、食料や小物を入れた嚢槖荷物袋まで持っている。彼は口には出さなかったものの、目はばっちりそちらを見ているので、当然気付いているのだろう。


「文には書けないお話なのでしょう? それか、余程込み入ったお話か」

「ええそうです。兎に角、時間がないのです」


 見つかってしまったのなら仕方ない。言うのなら今だ、とばかりに皓月が口を開こうとする。が、皇太子は、柳眉をわずかに顰め、憂いを帯びた目で皓月を見返してきた。


「貴女がそう仰る位ですから、すぐにおうかがいしたいところですが……申し訳、ござい、ま……せん。……限、界、の、……よう、……ね」

 

 声は、最後まで続かなかった。


 直後。彼の体が、ふつりと糸の切れた傀儡の如く、急に力を失い、ばったりとその場に倒れた。


 突然の出来事に、皓月は目を見開いた。


「――皇太子殿下!?」


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