紀第一 朔月の呪縛

第一

 ごぼり。

 

 何かを吐き出す鈍い音が響く。

 度に、黒々とした汚濁が、ごぼり。ごぼりと落ちていく。


 吐き出しても、吐き出しても、止まらない。

 身が震え、内腑が竦む。身の内から、何かが我が身を食い破って出て来るような。


“……頼む。……我の……が、まだ、ある内に……”


 耳で聞くというよりは、脳、あるいは肌にしみ込んでくるような声。


“酷な事を言っているのは確かだが……我にも、……は到底、手に負えぬ……早く……”


 首を横に振る。


“……そのようなお言葉など。――真に罪深きはわたくし。わたくしなのです”


 遙かから響いてくる、残照のような。


 ――あの声は、誰のものだったろう。


(――わたしは――)


   * * *


 宮女の身なりをした女が、膳を運んでいた。

 膳と言っても、載せられているのは、水と、味がついているかも疑わしいほど、ごく薄い湯のみだ。


 女が運んでいるのは、重罪人への食事だった。

 犬の方が余程上等な餌を与えられていることであろう。

 箸や匙さえもない。それは、浩に於いては、人扱いしないということである。

 それ自体が一種の罰であった。

 

 戸外は夕暮れから降り出した雨が次第に激しさを増し、時折響く天鼓の重たげな音が、雷公雷神のお出ましを告げていた。雷公の打つ鼓に撃たれるのを恐れ、人々はそれぞれの房室へ閉じこもって、神に見咎められぬよう、息を殺して隠れるのが常であった。

 が、運悪くも今日の配膳の当番に当たってしまったその宮女は、恐怖に顔を引きつらせながら歩を進める。

 目指す房の表扉を開ける。と、格子状の奥扉が姿を現す。

 その格子扉の下には、食事を出し入れするための小口がある。通常、罪人の獄の扉を開く時には、獄吏が二名以上付き添う決まりである。が、この小口を開ける分には付き添いは不要である。

 その為、女は一人だった。


「お食事をお持ちしました」


 告げた女の頬を、風が打つ。

 直後、激しい音と光を放ち、雷が近くに落ちたようであった。

 その、雷光に照らされた獄内に広がる光景。女は声もなく、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。音を立てて膳がひっくり返る。


「あ、…………ああ……、そんな……」

 

 喘ぐように零す。声は無意味な音のまま、言葉にならず、口の中に凝る。


 それは――花、のようであった。


 幽囚を示す白い衣に身を包んだ、嫋やかな四肢を投げ出し、肉の落ちた頬を、雷光の閃きが白々とぬらしていた。仰臥のまぶたは固く閉じられ、形のよい唇は静かに弧を描いている。その表情だけを見れば、ただ安穏と眠っているように見えた。


 ぽた、ぽた、ぽた。


 だが、その胸のあたりを中心に、黒々とした液体が濃いをなし、地面へ規則的に落ち、ひたすらに広がり続けているものは、闇の中でもなお明らかに、――血に相違なかった。 


「な……に……」


 寒々とした、房の暗がり。

 一際濃く闇の凝ったそこに、燃えるような、一対の金の瞳。

 それが、女の目を捉えた。

 

 女の悲鳴が高く上がった。

 が、その切迫した悲鳴も、激しく鳴り響く霹靂に押し潰されて、搔き消えてしまうのだった。


 

  * * *



 その人は、小さく身動いだ。


 その拍子に、肩にとまった小鳥が、驚いた様に翼をばたつかせる。

 衣が僅かに揺れ、桃の芳醇さと、茶葉の青みを帯びた香りが仄淡く漂う。


「――おや」


 やや掠れつつも艶やかな声が、その唇から零れた。その一瞬、暗い色彩の瞳に、炯々たる光が宿って燃え上がる。


 傍らには太古の昔、そこに置き捨てられた、物言わぬ奇岩・奇石が肩を並べていた。


 一体、いつからそこに在って、人々の営みを眺めてきたことだろう。――その人の様に。


 手に弄ぶ払子ほっすの先を天へと突き上げ、何かを窺うように、空に浮かぶ星辰ほしをなぞる。


「ふむ。――動き出したか」


 ひっそりとした溜息が零れる。

 その響きに秘められた色は、果たして何色であったか。

 払子を下ろし、肩の小鳥に語りかける。


「――行くか、きょう


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