匣中

白河夜船

匣中

 私の家には奇妙な部屋がある。

 仏間の隣にある和室なのだが、さして広い家でもないのに物も置かれず、かといって客間として使われることもない。なぜかそこだけ、がらんどうのままただただ放置されていた。


 あの部屋に入ってはいけない。


 誰に教わった覚えもないのだけれど、私はちゃんと知っていた。父も母も祖父も祖母も飼い猫のミャアも知っていた。入ったからといって何も起きない。何もいない。しかしやっぱり入ってはいけないのだと、敷居の前に立つとそう思う。知らないのは、弟のユウマだけだった。

 ユウマは、あの部屋に入ると襖を閉める。そうして密室の中、時々楽しそうに笑っては、抑えた声で何事かを呟くのである。外からは弟が何をして、何を話しているのか判然としない。やがて部屋を出てきた弟は、焦点の合わない恍惚とした瞳で虚空を見詰め、しばしぼんやりしているのだった。家族の誰もそれを咎めない。私も、もちろん咎めない。だって知らないということは、呼ばれたということだから。可哀相だけど仕方ないのだ。


「ねえ、あの部屋で何してるの」


 私は一度訊ねてみたことがある。ユウマは目を瞬いて首を傾げた。


「あの部屋、何もないでしょ。空っぽ。いつも一人で何してるの」


 私は中学生だけど、弟はまだ小学生だ。子供だし無口な子なので、あの部屋で見聞きしたことを言葉にするのが難しかったのかもしれない。ちょっと口籠もり、ややあって「箱」と一言呟いた。

「箱?」

「うん。箱があるんだ」

「どんな箱?」

 弟は困ったように俯いて、これくらいの、と手で箱の大きさを表した。

「箱の中にいるんだよ。うまってて出られないの。だからおれ、会いに行ってるんだ」

「誰に?」

「…………知りたいなら部屋、入ればいいのに」

 別にそこまでして知りたいわけじゃない。私は肩を竦めて、弟は笑った。幼げながら仄かな優越感が滲む笑顔は、私が敷居を越えられないことを察して喜んでいるようで、正直なところムカついた―――と、同時に憐れでもあった。

 あんな不気味な部屋に入れたって、ろくなことにはならないだろうに。






 弟があの部屋で過ごす時間はだんだん長くなり、近頃はもう全く外へ出て来ない。食事も摂らず、風呂にも入らず、トイレにも行かず、もうとっくに死んでるんじゃないかという時間が経ったが、ぴったり閉まった襖の奥から異臭が洩れ出すことはなく物音一つ聞こえない。

 私も家族も、弟なんか元々いなかったように振る舞っている。学校どころか近所の人も警察もそんな我が家の様子を気にしないので、もしかすると弟はあの部屋に取り込まれて、この世からすっかり消えてしまったのかもしれない。ふと思いつき、写真立ての中にある家族写真を覗いてみれば、案の定弟の姿は見つからなかった。最早名前すら思い出せない。弟は、真実いなくなったのだ。


「箱の中にいるんだよ」


 時々、弟の言葉が頭を過る。


 彼が消えて以来、襖を開けられなくなった部屋は巨大な箱のようだと思う。弟の手が表した箱は、私が小物入れとして使っている菓子缶くらいの大きさだった。そんな小さな箱に弟はきっと入らないから、箱の中にいるという誰かはこの部屋を、弟を仕舞うための箱としたのだろう。


 いずれ弟がいたという記憶さえも、この箱に仕舞われて無くなってしまうのかもしれない。


 そんなことをぼんやり考えながら、私はそっと襖に触れた。触れただけである。災いパンドラの箱を開く勇気はない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

匣中 白河夜船 @sirakawayohune

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ