第七話 記録と記憶
これまでセイム王の中に間断なく蓄積されていたのは意図して残された記憶ではなく、単なる記録だ。風雪が石に刻み込む紋様のようなもので、自動的に王に刻み込まれてきた。全ては過去にあった事実であり、その中から失敗した事例やうまくいかなかった事例が身体形成や行動決定から機械的に外れ、個体が維持されてきた。今あるセイム王は、過去の凝縮形であると言っても過言ではない。
しかしヒトが備えている思考という能力は、これまで無為に列記されていただけの事実を自在に組み立てることが出来る。思考することで、これまで王になし得なかった高度な判断、行動制御、予測が可能になり、採餌の効率が飛躍的に向上した。そこまではよかったのだ。
だが。思考という新たな能力にはとんでもない副作用が漏れなく随伴していた。それは……自我と感情、そして記憶だった。
◇ ◇ ◇
セイム王はもともと一個体しか存在しない。己が何者かにこだわる意味はなく、それは思考を得ても変わらないはずだった。だが、摂食したヒトの記憶まで記録として取り込んでしまったために、一気に面倒なことになった。
己は何者なのか、どうしてここにいるのか、何をすべきなのか。セイム王に自我意識が発生したことで、これまで一切関わってこなかった余計なノイズがとめどなく押し寄せてくるようになった。その上、厄介なノイズを不要物として切り捨てることができなくなっていた。思考によって最適化された採餌の利得の方が、ノイズのもたらす弊害よりもはるかに大きい……セイム王の肉体が、ヒトを組み込むという選択を完全に受け入れてしまったからだ。
過去の集大成だった旧来のセイム王を全否定するほど、大きなパラダイムシフトが起こった。セイム王は、ヒトの思考を組み入れる道に舵を切ってしまった以上ノイズ込みの己の在り方に慣れるしかなかった。
だが、思考の副産物はどうしようもなく危険だった。自我意識の発達だけでも厄介だったのに、思考には感情という余計な修飾符が必ず付いて回った。ヒトが誰しも有する喜怒哀楽という感情は、採餌にも危機回避にも寄与しない。何の役にも立たないのに、制御が極めて難しい。セイム王は、勝手に湧き上がる己の感情をどうしようもなく持て余したのだ。
それでも、自我意識発生や制御困難な感情のノイズはまだましだった。もっとも深刻なノイズは、実は記憶だったのだ。
◇ ◇ ◇
前述したように、セイム王のこれまでは体内に残らず記録されていた。死で個体の記録が途切れる他の王と違い、セイム王の記録は一度たりとも途切れることはなかった。思考を得たセイム王は、記録がこれからも無条件に続くと考えたのだ。ところが、そうはならなかった。ヒトを摂食して以降、セイム王は記録がところどころ途切れていることに気づいた。これまでは自ずと残された記録がない!
慌てる、焦るという初めての感情に翻弄されながら、必死にあるはずの記録を取り出そうとしたが……全て徒労に終わった。
「なぜだ……」
せっかく得た思考という能力を、ずいぶんとくだらないことに使っている。自虐もまた、セイム王が初めて体感した味気ない感情だった。しかし、セイム王が摂食したヒトは相当思考力の優れた個体だったのだろう。ほどなく解が得られた。
「そういうことか」
解が得られたとて、どうすることもできない。激しく落胆しながら、王が思考を整理する。
「ヒトという王は、記録を自動的に蓄えない。自我とそれから派生する感情に基づいて、得られた事実を恣意的に取捨選択し、不要と見なした事実は記録に残さず消去してしまう。残されるものは記録ではなく、記憶と呼ばれる……か」
王は戦慄を覚えた。記録を残せないだけではない。どのような記憶であっても、それが頻繁に利用されない限り不要物とみなされ、時間経過とともに徐々に消去されていく。そして、一度消去された記憶はほとんど回復できない。記録のように、探し出していつでも利用、再格納できるわけではないのだ。
事実、ヒトを摂食して以降の『記憶』にはあちこちに大きな穴が空き、その空白部分にあるはずの事実はどうしても取り出せなかった。王が無意識下で行動した事実は『記録』されていなかったのだ。
記憶という新たなシステムがこれまで蓄積されている記録領域まで侵すようになれば、いかなアンデッドと言っても命取りになりかねない。どれほど思考で行動効率を高めようとしても、思考に使える事実が失われてしまうのだから。
ここに及んで、セイム王は最悪の選択肢を選んでしまったことを深く悔いた。だが……もう後戻りすることはできなかった。
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