第三話 不可解

 持っていた剣を床に突き立て、それに寄りかかるようにして立っていたワスルは、闇にずぶずぶ沈み込もうとする意識をなんとか立て直そうとした。


 現時点ではっきりしていることがある。俺の記憶は失われていない。そして、倒すべき王はもういない。洞の外に出てウインチェスに会えば、あいつは俺がどのような格好をしていようとも俺だとわかってくれるだろう。

 ワスルは、山積する不可解なことを深く考えたくなかったのだ。しかし、ワスルの足はぴくりとも動かなくなっていた。もう一つ、不可解な出来事以上に深刻な難題にぶつかってしまったからだ。


「俺は……俺は洞を出たあとどうすればいいのだろう」


 ワスルには、たった一つしか生きる目標がなかった。セイム王を倒して呪いから解放されること。ただそれだけ。呪いから解き放たれたらどうするかを考える前に、まず王に勝たなければならないのだ。そして最後の最後まで、勝利できる確信が得られなかった。命懸けの挑戦でありながら、勝ち残るという結末をどうしてもイメージできなかったのだ。

 そうではないか。ワスルが己に問う。どれほど俺が剣技を極めても、相手は魔物なのだ。剣で対処できぬ攻撃をされれば防ぎきれぬ。しかも三分という苛烈な時間制限がある。身命を賭さぬ限り、王には絶対に勝てぬ。万分の一の確率でしか勝ち残れぬ身であれば、生き残った後のことまで考える余裕などどこにもない。

 その万分の一が、図らずも実現してしまったのだ。


「俺は、これからどうすればいい?」


 ワスルは、混乱に加えて目標喪失まで抱え込んでしまった。洞に入ってからいくらも経っていないのに、どうしようもなく疲れ果てていた。身体ではなく、心が。


「飯でも食うか」


 ウインチェスと稽古をしたあとは、よく飯屋で飯を食いながら剣技の議論を交わしたものだ。常に張り詰めている俺にとっては、やつと過ごすひと時の弛緩が支えになっていたのかもしれないな。

 友との歓談を思い出し、ふっと笑みを浮かべたワスルだったが、一転恐ろしい形相になった。


「なぜ腹が減らん。喉が渇かん!」


 セイム洞に至るまで、身のこなしを俊敏に研ぎ澄ますため一切の飲食を絶っていた。常ならば空腹も渇きも極限に達しているはず。それなのに飢餓感を全く感じない。

 嫌な予感がワスルの脳裏を過ぎった。そうだ。王が事切れる直前に言い残したのだ。おまえが王だ、と。


「俺が王と入れ替わったというのか。俺が魔物になってしまったというのか!」


 いや……それはおかしい。打突の傷は確かに俺のつけたものと一致した。倒れた王が握りしめていた剣は、俺のものではなく王のものだ。間違いなく王は死んでいる。もし入れ替わっているのならば、意識は俺ではなく王のものになっているはず。だが、俺は間違いなくワスルだ。どういう……ことだ?


 ワスルはもう一つ、奇妙なことに気づいていた。洞の中に無数に散らばっていた骸は、どれも極めて古かった。セイム洞の入り口が鉄扉で封鎖されたあとは、洞に足を踏み入れた者が誰もいなかったのだろう。

 ならば王は何を口にしてここで生きてきたのだろう。こっそりと外で狩りをしていたということか? いや、それならば禍々しい出来事がもっと頻発していたはず。セイム王の悪名はもっと広く知れ渡っていただろう。魔物であれば我々と違うものを血肉にできるのかもしれぬ。だがそれが何か、全く見当がつかぬ。


 何か手がかりが欲しい。剣先で床を突きながら、ワスルが呟いた。


「甲冑を外せない以上、今の格好のままでリーバフロウに戻るのは危険だ。王が自らのことについて何か書き残していないだろうか。そいつを確かめてから行動を決めても遅くはなかろう」


 いくらか冷静さを取り戻したワスルは、慎重に広間を改め始めた。だがどれほど血眼になって探しても、文字が記されている紙、獣皮、石などは見つからない。洞の通路も徹底的に探したが、骸が携えていた紙や獣皮は完全に腐り果てていて、文字が全く判別できなかった。洞の側面に文字が刻み残されている形跡もない。まるで、この洞の中では文字を残すことが禁忌であるかのように思えてくる。


「あるいは、玉座の中、もしくは下に隠されているとか」


 石積みの粗末な玉座だ。すぐに解体できるだろう。その前に。

 ワスルは、着用し慣れない甲冑がひどく窮屈に感じ、何かに全身を預けたくなった。解体する前に、一度玉座で休もう。王の剣と己の剣を椅子の傍に並べて横たえ、玉座に深々と腰を下ろした。


 その瞬間。

 ワスルは、何一つ書き残されているものがない理由を我が身で悟った。


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