第二話 混乱

 ワスルはなかなか混乱を抜け出せなかった。呪いをかけたセイム洞の王は倒した。間違いなく倒したのだ。だが、相打ちになったはずの自分が生きていることも、甲冑など身につけたことがないのに王と全く同じ格好をしていることも理解できない。


 ワスルが真っ先に確かめようとしたのは記憶が残されているか、だった。俺は三分の刻限に間に合ったのだろうか。王の呪いは本当に解除されているだろうか。慎重に過去の記憶を手繰り寄せていく。

 長く厳しい修行によって剣技を高め続けた日々。ウインチェスと互いに切磋琢磨してきたこと。実戦でいかなる相手にも三分以内に勝利してきたこと。ウインチェスに別れを告げ、セイム洞に突入して王と戦ったこと。王と互角の力量だったため、覚悟を決めて一斬に己の全てを懸け、王を貫き通したこと。

 思い出せる。何もかも鮮明に思い出せる。しかし。ワスルは思わず首を傾げてしまった。


「なぜ、俺の記憶は途中から始まるのだろう」


 修行剣士としてウインチェスが暮らすリーバフロウに辿り着き、そこで本格的な訓練を始めたことは覚えている。だが、それ以前のことを何も、何一つ覚えていない。それこそ、鋭い刃で過去がすっぱり断ち落とされてしまったかのように、記憶が空白になっている。

 空白の過去を気にしたことがなかったのは、王を倒して呪いを解くことが己の全てだったからだ。余計なことを考える暇があれば剣を振り、己を鍛えよ! 三分以内に王を倒すことだけが唯一達成せねばならぬ使命と目標であり、それ以外のことは寸時も考えたことがなかったのだ。


 ワスルはふと思い返した。セイム洞に突入する直前、ウインチェスに問われたことを。


『呪いがセイム王によってかけられたということを、なぜ知っているのか』


 至極当然の疑問だ。王に呪いをかけられたのであれば、俺は以前王と戦って敗れたはずなのだ。だが広間で対峙した時、俺には全く既視感がなかった。王は初めて戦う相手であり、王の突出した剣の冴えも過去に体感したことがなかった。では、俺はどこで王に呪いをかけられたのだろう。

 ワスルの混乱はなかなか治らなかった。何度記憶をさかのぼろうとしても、リーバフロウに来てからのことしか思い出せない。


「ふう……」


 ゆるゆると首を振ったワスルは、ひとまず己の過去を探る試みを中断し、今の己が何をすべきか考えることにした。まず、傷の状態を確かめよう。ワスルは甲冑を外そうとしたが、まるで甲冑が己の皮膚であるかのようにぴったりと密着しており、どうしても外すことができない。顔を覆っている兜も同様だった。


「なんだ、これは!」


 おかしい! もし王が装着していた甲冑ならば俺の突きで空いた穴があるはず。だが、そんな跡はどこにもなかった。そして……甲冑を外さなくとも、王に突き抜かれた胸の傷が消え失せていることはわかった。なんの痛みも違和感もない。戦う前の、全身くまなく鍛えられた完全な肉体そのものだ。


 目の前に倒れている王は、間違いなく事切れている。ワスルが剣で突き抜いた時に穿たれた傷口も鮮明だ。血もおびただしく流れている。

 だが。ワスルの目前で王の遺体がじわじわと溶け、床に吸い込まれ始めた。まるで、身体が蝋かなにかで作られていたかのように。床に散っていた血飛沫もいつの間にか消え去り、王が遺した痕跡は、ワスルが最初に身につけていたわずかな衣服と一振りの剣だけになった。


「……」


 ワスルは早く洞を出たかった。とにかく王を倒したのだ。ここに居続ける意味はもうないのだ。すでに呪いから解き放たれたのだから。洞から出よう! 衝動的に広間から駆け出したワスルだったが、すぐに足を止めた。


「王の正体を知る者は誰もおらぬ。これまで洞から帰還できた者も一人としておらぬ。王の遺体が消えてしまった以上、甲冑を外せぬまま洞から出ると俺が王だとみなされ、討伐の標的になりかねぬ」


 ワスルは足を引きずるようにして、広間にとって返した。気落ちしたまま広間を見渡し、強い違和感を覚えた。


「誰も倒せぬ魔物の居室にしてはどうにもみすぼらしいな」


 広間にあるのは一脚の椅子のみ。それも、石を積み上げて椅子を模しただけの粗末なものだ。椅子以外には何一つない。言うなれば闘技場に一脚の椅子があるだけという風情。


「いや、まだあるか」


 王が戦いの寸前にかざした砂時計が、ひっそりと広間の隅に置かれていた。だが、それだけだ。もともと広間にあったものは、椅子と砂時計だけのようだ。あとは、王の剣とワスルの衣服。それしかない。

 王の使っていた剣を拾い上げ、造作を確かめる。ワスルがずっと使い込んでいる剣ではなく間違いなく王の剣だが、王の剣にしてはあまりに素っ気ない。装飾も宝飾も施されておらず、くろがねの柄と鍔、そして研ぎ澄まされた白刃のみ。鞘はなく、抜き身だ。修行時代に練習生が持たされる無装飾の模擬刀と大差がない。


 じっと王の剣を吟味していたワスルは、広間を出ると洞の出口に向かってゆっくりと歩き始めた。もう王はいないのだ。洞を出ようと思えばいつでも出られるはず。その前に、どうしても確かめておきたいことがあった。

 洞に入った時とは逆に時間をかけ、通路両側の様子を窺いながら、洞の出口に向かって歩き続ける。ほどなく洞門に至った。洞門を塞いでいる巨大な鉄扉を押し開ければ、洞を出てウインチェスに勝利を報告できるだろう。だが、鉄扉を見上げたワスルは両手を力なく垂らして扉に背を向け、広間にゆっくり戻っていった。


 脳裏では、疑問ばかりがぶくぶくと膨らんでゆく。

 洞には王以外誰もおらぬ。洞にあるのは通路と広間だけで。あとは何もない。剣も砂時計も、王が身につけ今は俺に張り付いている甲冑や兜も、王のものではなくこの洞に入り込んだ者たちの遺物ではないのか?

 王はここで何をどのようににえにし、生き延びていたのであろう。王が洞から出たことがないというのは本当だろうか?


 どれほど問いや疑問を重ねたところで答えてくれる者はいないのだ。ワスルの混乱は、治まるどころかますます悪化していった。


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