あまい子
小町紗良
あまい子
10年前、クラスメイトの美莉亜ちゃんが万引きした香水。
雇用関係の書類を確認したくて、古びた学習机の引き出しをかたっぱしから開けていたら見つけてしまった。いちばん下の段のいちばん奥に、申し訳なさそうに、窮屈そうに、それはおさまっていた。
ミリアちゃんはわたしと全然ちがう女の子だった。
たぶん、今もぜんぜんちがう。
記憶の中で鮮烈にゆらめく、ミルクティーベージュのゆるふわロングヘア。丈の短いプリーツスカートから生える、ムダ毛も傷もない白い脚。プレイボーイのワンポイントハイソックスと、コンバースのローカットスニーカー。
私がミリアちゃんを思い出すとき、まなうらに浮かぶのは彼女の後ろ姿ばかりだ。理由は明白、ミリアちゃんは華やかなギャルで、私は野暮ったいオタクだったから。
ああいうタイプの子たちは苦手だし、なるべく関わりたくなかった。そばにいると、こっち見てくすくす笑われてる気がする。今だって、街中できゃあきゃあ言ってる女子高生がちょっとこわい。
なのに、私はミリアちゃんに猛烈に惹かれた。
ある日の午後。昼休みが終わり、予鈴が鳴ったあとだ。口の中にうっすらとした血の味を感じ、舌先で唇をなぞってみた。がさがさの下唇が切れていた。
プリーツスカートのポケットに手をつっこみ、リップクリームを取り出して塗る。
ドラッグストアで適当に買った、いちばん安くてスースーするやつだ。100円もしなかったと思う。
消耗品は最安値を選べ、というのは、しまむらかユニクロかパシオスのコーデで固めている母の教えだ。家族や先生以外の大人に怒られるのがこわくて、バイトなんかできない。おこづかいだって、友達に付き合ってサイゼリヤとかアニメイトとか行ったらすぐに底をつく。
私よりすこし遅れて、斜め前の席のミリアちゃんも、ポーチからリップを取り出した。そのわずかな瞬間、彼女の手の中に、シャネルの小さなロゴマークが見えた。
うまく説明できない。ただ、透明ですごく細くてすごく尖ったものが、わたしの心臓を串刺しにした。
ミリアちゃんは、高3でシャネルのリップを持てるんだ。私にはできない。
強烈な劣等感が押し寄せ、血中に流れ出し、全身を巡った。
ミリアちゃんの金銭的な余裕に驚いたわけではない。彼女は居酒屋でバイトしてるらしいし、その範疇でならほしいものを買えるにきまってる。
デパートのコスメフロアの、シャネルのきらきらしたお店に歓迎されているミリアちゃんを、すんなりと想像できた。有隣堂がある階へ行くために横目で通り過ぎるだけの、私なんかには縁のない場所だ。
自由につかえるお金があったとして、私はやっぱりカラオケチェーン店のアニメコラボドリンクだとか同人誌だとかに散財するだろう。それを卑下するつもりはない。
それとこれとは別で、シャネルでお金を使えるマインドがあるミリアちゃんと、そんなことを考えてもみなかった自分の間にある、クソデカの溝に恐れ慄いた。
ミリアちゃんが隣の子に話しかけられ、横を向く。いやみのない赤色のくちびるだった。今っぽくいえば、抜け感のある青みレッドか。
かわいかった。お人形さんみたい、なんていうやつじゃない。
生身のエネルギッシュで小生意気な女の子だった。シャネルのリップ持ってる子なんて、ほかにもいただろう。アナスイのちいちゃいショッパーに、体操着をギチギチに詰めてる子とかもいたし。
でもとにかく、ミリアちゃんだけが私の気をひいた。
授業中の後ろ姿も、ギャルの子たちと群れてる時も、やたら腰の低い位置でスラックスを履いている男子に絡まれてる時も、視界の隅に彼女が映れば、無意識に目で追ってしまう。
昇降口でたまたまミリアちゃんとふたりきりになり、動揺しまくる地味オタクの私にだって、笑顔で「おはよ」って言ってくれる。そんな日は1日じゅうなんとなく浮き足立つとともに、ミリアちゃんにもっと近づきたいという気持ちがふくらんだ。
がしかし、スクールカーストの垣根は高い。早く帰ってピクシブで推しカプ作品漁ろう、などと思いながら校舎を出ようとしたところで、ギャルグループが私の前に立ちはだかった。ミリアちゃんもいた。
「ノムラさぁん、ちょっといい?」
と、リーダー格の子が、冷ややかな目をして言う。よくないです御機嫌よう! って走り去れるもんならやってみたかった。
「さいきんウチらにガン飛ばしてるよね、なんか文句あるなら直接言ってよ」
めちゃくちゃ恥ずかしかった。何がって、ミリアちゃんのグループからしたら、私は「ノムラさん」でしかないってことが。苗字にさん付け。それが意味するところの、ミリアちゃんと私の距離感が。
カーディガンの袖を極限まで伸ばして指先まで隠し、太腿のあたりで手をぐにぐにさせている私は、度胸のない陰キャの仕草に見えてさぞギャルたちをイラつかせたに違いない。ささくれだらけの指をミリアちゃんに見られたくなかっただけだ。
「ちがう」自分でもはっとするぐらい、毅然とした声だった。
リーダーの子の肩がびくっと跳ね、半歩ひいた。私の学生鞄についてる平和島静雄のキーホルダーもじゃらついた。
「ミリアちゃんがかわいいから見てるだけだよ」
はじめて名前を呼んだ。彼女だけを見据えて、私は言った。すごくドキドキした。
ミリアちゃんはびっくりした猫みたいに、カラコンの入った目をまんまるくした。
ヘンな空気が流れたのち、誰かが「キモ……」とつぶやいた。
とつぜん、ミリアちゃんの手が私の頭にポンと置かれた。反射的に「えっ」と発音してしまったが、彼女は構わず、ポンポンと私の頭のてっぺんを撫でた。
「ありがとうユーコちゃん、うれしい」
友達に向けるのと同じ笑顔で、ミリアちゃんが私にさわってる。ていうか、私の下の名前覚えてくれてるんだ。あまりの神対応に呆然としているうち、リーダーの子が「ミリア、もう行こ!」と不機嫌そうに吐き捨て、彼女の腕をつかんだ。仲間たちにずるずる引き摺られながら、ミリアちゃんはニコニコしながら私に手を振ってくれた。
ていう話を、同僚のフクダさんにしてしまった。
万引きされた香水のことは言ってないし、ある程度かいつまんだけど。
「やーん、ノムちゃんもミリアちゃんもかわいーっ」
フクダさんの甘く間延びした声が、閑散としたロビーに響いた。
誰もが知ってる家電メーカーの、誰が知ってるんだというかんじの子会社の受付で、派遣社員の私たちは暇を持て余している。
企業見学だとかで訪れた高校生たちの受付を済ませてからやることがなくなり、話題は自分たちの高校時代の話になった。
「私ばっかり語っちゃったじゃないですか。フクダさんもなんか思い出エピソードとかないんですか?」
定時まで1時間を切っていて、取引先の人が訪問したりもしないし、会議もないのでお茶出しもない。忙しい時はほんとうに忙しいのに、こういう時間の私たちしか見たことがない社員のおじさんがフラフラとカウンターにやってきて「ヒマでいいねえ」とか言ってくるのを殴らずにやりすごすのも仕事のうちだ。
「えーっ、うーん、あんまり覚えてないんだよねえ。ノムちゃんには10年前のことだけど、わたしは20年も前のことだもん」
「女子高だったんですよね。華がありそうでいいなあ」
「ないない。女子しかいないから、逆にみんなマジで野蛮だったよお」
これ以上私からは何も聞けないと悟ったのか、フクダさんは先週末やったばかりだという、ジェルネイルに見惚れはじめた。ちゅるんとしたピンクで、ところどころにラインストーンが散りばめられている。
たしかにきれいだが「ネイルは地味なものなら可」という規定を明らかに侵している。他の受付スタッフと「あれダメだよね……」と苦笑交じりに言いあうこともあるけれど、なんとなく誰も本人に注意していない。
フクダさんはおっとりしていて、気の抜けたコーラみたいなぼんやりした甘い声で「あのねえ、うちの旦那さんがねえ」からはじまる惚気話をよくする。ぶりっこをしているのではなく、自然体でこんな調子なので、なかなかちょっとクセがある。
一緒に働いているとたまにイラっとくることもあるけど、私は基本的にフクダさんのことが好きだ。屈折してないし、なんかこう愛し愛され生きてきたんだろうな、というオーラを纏っている。
フクダさんは扶養内で働いてるから、週に2日ぐらいしか会わない。同じ路線を使っていて、帰りはフクダさんが私より何駅か早く下車する。
はじめて一緒に帰宅した時、別れ際に「わたしのおうち、あれだよ」と、駅ビルと直結した高層マンションを指された。
だいだい色の灯りがともる、縦にながい長方形のそれを呆然と見あげた。
フルタイムで働いて手取り15万の派遣社員、実家暮らし27歳。
資格もないし正社員の職歴もない。ついでに彼氏もできたことがない。えっ、このままだと、いわゆる子供部屋おばさんになってしまうのでは……?
いまさら確認する必要もない自分のプロフィールが、突如深刻なものに思えてきた。私ヤベエ気がするな、でもまあなんだかんだやってけるでしょ、というかんじでスルーしているアレが、突如巨大化して眼前に現れた。
それと同時に、ミリアちゃんのことが脳裏に浮かぶ。
シャネルの店舗で接客を受ける彼女をやすやすと想像できたみたいに、現在のあの子もすんなりと想像できた。
大学を出て3年だけ働いて、どこの馬の骨かもわからん男と出会って結婚しているし、幼い子供がいる。ミリアちゃんの名前をググったら、きっとフェイスブックがでてきて、いま想像していることの7割ぐらいが的中している気がする。見たら確実にメンタルがやられるから見ないけどさ。高校の時にギャルに言われた「キモ……」が脳内で再生される。
結婚式に呼んでくれた友達、ボーナスが出ると食事を奢ってくれる友達、同人活動から商業作家デビューしたフォロワー。ありとあらゆる、私よりうまくいっているように感じる人々が思い浮かぶ。
鬱々としているうちに最寄り駅に着き、スーパーに入り、ストロングゼロを買ってすぐに開栓した。こんなことをしたのははじめてである。すこし速足で歩いているうち、多少気分がマシになった。通行人にチラ見されるのも気にならない。
実家の近くにある、クソ広マンションの敷地内の公園でベンチに座る。誰も利用していないベンチをふたつ挟んだところに、かかわりたくないかんじのおばさんが座っていた。
街灯だけが頼りだが、50代ぐらいに見える。小太りで猫背で、身体の左右にはパンパンに荷物がつまったトートバッグが置いてある。そんで、両手で大事そうにワンカップの酒を握りしめ、ちびちび舐めていた。
浮浪者? いや、それにしては肉付がいい。身に着けてる謎のパッチワークなロングスカートも、くたびれてはいるが汚くは見えない。でもなんなんだあの荷物の量、スーパーでまとめ買いしたかんじには見えないし……家族と喧嘩して飛び出してきたとか……などと横目で推測する。
えっ、ちょ、ちょっと待って。
ワンカップおばさんが何者なのか分からないけど、なんか、私の行きつく先もあんなかんじだったりするのか。
ストゼロをガッと飲み干して立ち上がり、おばさんから逃げるようにして実家へ急いだ。
それ以来、ほとんど毎日、帰路に同じ場所でワンカップおばさんを見かける。
飲んでいる時もあれば、俯いて座っているだけのこともある。出勤の時は見かけないから、やはり家はあるんだろうか。案外、ただの夜の散歩コースだったりして。
職場のほうでは、ついにフクダさんのネイルがお叱りを受けた。
「ノムラさん、フクダさんに爪を見せてあげて」
受付のまとめ役の、黒髪をオールバックのポニーテールにした先輩が言った。なぜか私が怖気づきながら、手の甲を上にした状態で両手を差し出す。
たまたま今朝爪を切り、つい先ほどハンドクリームを塗ったばかりなので、質素だが清潔な状態だった。つづいて先輩も、両手を私と同じ格好でずずいと差し出す。彼女はベージュ色のシックなネイルだった。
「ウチではこれがルールなの。フクダさんも大人だから、気づいてくれると思って様子を見てたけど、改善しませんでした。私たちだってこんなこと言うのイヤなんです。少し考えればわかるでしょう」
私たちの手を見ているのかいないのか、フクダさんはしょんぼりした様子でうなだれている。そしてきらきらしたネイルを隠すように手を握り込む彼女の姿は、いつかの私を思い出させた。
「フクダさん、聞いてます?」
先輩がイラつきを隠し切れないトーンで呼びかける。常日頃から、フクダさんに対して思うことがあるんだろうな。まあ、あんまり合うタイプじゃないよな。
「仕事に対しての考えが甘いです。次の出勤までに、落としてきてください」
フクダさんは目をうるませ、下を向いたまま「申し訳ありませえん……」と蚊の鳴くような声を出した。もっとシャキッと謝らないと逆効果だろう。同情しつつも、心のどこかで、彼女がもっとけちょんけちょんににされればいいのに、とも思った。
だから、フクダさんが「ノムちゃん、わたしクビかなあ」と、目をうりゅうりゅさせながら顔を寄せてきた時は、しょうじきかなりイライラした。
「こんなことでクビにならないですって。人手足りてないんだし。ちょっと先輩キツかったけど、ネイル地味にすれば大丈夫ですよ」
「あのねノムちゃん、わたしがなんでお仕事してるかってゆうとね」
なんなんだ突然。
「旦那さんがね、お前はセケンシラズだから外で働いてこいってゆうからなの」
「は?」
なんだそのクソみてえな男はテメーは世間の何を知っとるんじゃ森羅万象司ってんのはお前か全知全能ぶってんじゃねえぞ器ちっさ縫い針の穴よりちっさこんな可憐でかわいい女がお気に入りの爪剥がしてしゅんとしながら働かなきゃいけないほうがイカれてんだろがチクショウこんなみみっちい時給1000円ちょっとの仕事なんかやめちまえクソがばかやろー!
と、啖呵を切り、フクダさんの手を取って受付カウンターをはっ倒し、制服をそのへんに脱ぎ捨て、エッグスンシングスに駆け込んで生クリームもりもりのパンケーキを気持ち悪くなるまで食べ、グリーン車の切符買ってゲラゲラ笑いながら熱海まで行ったりしてみたかった。
んなことできる度胸もないので、瞬間湯沸かし器というか活火山みたいな脳を瞬間冷却器にかけ、
「えーっ何それ超ひどーい、フクダさんべつにセケンシラズなんかじゃないですよ、多少マイペースなだけで」
とヘラヘラしながら言う。
フクダさんは花柄のハンカチを目頭に当て、鼻をすすり、てれてれとはにかんだ。
「えへへ、ノムちゃんありがとう。ちょっと元気でた」
ミリアちゃんならこんな時、ためらいもなくフクダさんの頭を撫でるだろう。私にはできない。この人じゅっこ歳上だし。
フクダさんにけちょんけちょんに傷ついてほしい気持ちと、彼女が彼女のまま振る舞えない世界はクソだという気持ちは、完全に五分五分で両立していた。
我ながら理不尽だと思う。たぶんそろそろ生理くる。
この日の帰り道も、やっぱり同じ場所にワンカップおばさんがいた。フクダさんも、旦那さんに捨てられたらこうなっちゃうのかなって勝手に思った。なっちゃうって何だよ。おばさんに失礼だろうが。私が思ってるより、おばさんも幸せかもしれないし。
帰宅して、母がつくった鯖の味噌煮を食べ、母が沸かした風呂に入り、スマホを見るとフクダさんからラインがきていた。
『今日は泣いちゃってごめんね。早速オフしてきました』
きらきらじゃなくなった、彼女の手の写真が添付されている。
『ノムちゃん、いつも優しくてだいすき。これからもよろしくね』
ハートを飛ばしているマイメロディのスタンプ。
お、おう……。
いや、もう、ほんとうに素直にすごいよこのピュアさは。生クリームとキャンディとマシュマロとバニラアイスとイチゴ味のなにかしか存在しない王国で生まれたんだ。
ふにゃふにゃになった脳が肉体に意味不明な指示を発し、私の手は机の引き出しへ伸びた。そして香水の箱を掴み、ベッドの枕元に置き、ぼんやりと眺めた。
「み、ミリアちゃん!」
あの時なぜか、彼女を呼びとめる権利が私にはある、と思った。
放課後、オタク仲間とカラオケに行き、解散したあとだった。帰宅ラッシュがはじまりかけた夕方、地下鉄の改札に吸い込まれていく人ごみの中に彼女の後姿をみつけた。
私も彼女もひとりで、ミリアちゃんは私と逆方面のホームに向かっていた。なんだか少し速足に見えて、急いでそうだから声かけたら迷惑かな、ではなく、はやく引き留めないと、という焦りを感じた。
彼女はひどく驚いた素振りで振り返った。それからいつもの笑顔を浮かべ「なんだ、ユーコちゃんじゃん。ちょっと来て」と壁際のほうへ手招きした。
ミリアちゃんはホームに流れていく人ごみを、何回か振り返った。立ち話をしている女子高生のことなんて、誰も気に留めていない。
私は蛍光灯に照らされてほの白く光る、ミリアちゃんの横顔を盗み見ていた。利発そうなおでこ。ニキビも毛穴もうぶ毛もない、つるりとした肌。きりっとした眉毛、くっきり二重のおおきな瞳。シャネルの赤に色づく、みずみずしいくちびる。
彼女は学生鞄に手をつっこむと、片手で掴めるサイズの箱を取り出し、手渡してきた。
箱には真っ赤でころんとした香水瓶の写真とともに、英語かフランス語がプリントされていた。戸惑いつつ箱を開けてみると、写真とおなじ瓶が入っていた。
「あげる。ユーコちゃんに似合うと思ったの」
「えっ、ええっ、私、香水なんてつけたことないよ」
「あまーいにおいがするの。ほしいなって思ったけど、私にはちょっとかわいすぎちゃう。でも、ユーコちゃんにはぴったり」
香水とミリアちゃんの顔を、何度も見比べた。
ぜったいにミリアちゃんのほうが似合う。私はそもそも香水について考えたことすらない。
ミリアちゃんが私の名前を呼んで、私にプレゼントをくれたことが嬉しくてうれしくてたまらなかった。こんなにいい贈り物ははじめてだって、本気で思った。
そのはずなのに、名状し難い抵抗感も強かった。
「ありがとう。でもやっぱり、受け取れないよ。だって、こういうのって高いでしょ? 私にはもったいないよ」
最大限の畏敬の念をもち、両手で恭しくお返ししようとする。すると、ミリアちゃんは箱のてっぺんに手を置いた。ちょうど、私の頭を撫でたのと同じかんじで。
「いいの、気にしないで」
箱に乗せた手を、やんわりとこちらに向かって押し返してくる。
「万引きしたやつだから」
「え」
えっ、はっ、えっ?
呆然と立ち尽くす私を置いて、ミリアちゃんは「ばいばーい」と言い、颯爽と立ち去ってしまった。ときめきでドキドキしていたのが、緊迫と恐怖のドキドキにかわり、一瞬で背中が汗でびちょびちょになった。
全くもってどうしたらいいのかわからない。長いことひとりで狼狽えてた気もするし、ほんの数十秒そこで動けなくなっただけな気もする。
監視カメラがあるのに気づいた途端、私は香水の箱を鞄に放り込み、競歩のスピードでぎくしゃくとホームに降り、電車を乗り継ぎ、指名手配されているような心地で帰宅した。
最寄駅の前の、交番が面している道路を迂回した。後ろからきたパトカーが走り去っていった時は、もう全身がスマホのバイブぐらい震えてた。
部屋に着いてからはすみやかに机の引き出しを開け、いちばん下の段のいちばん奥のすみっこに箱ごと香水を隠した。ディズニーランドのお土産の空き缶の隣で、まるで元からそこにあるかのように、すっぽりと難なくおさまった。
それからしばらく、もう気が気じゃ無かったのを覚えてる。
学校でも家でも何事もなさそうにしていたけど、誰に話しかけられても、香水の件がバレたんじゃないかと身構えた。食欲もなくなり、何キロか痩せた。
いっぽうミリアちゃんは、ほんとうに何にも変わらない様子でギャルやギャル男たちとつるんでいた。ミリアちゃんへの憧れは、ほとんど恨めしさに上書きされた。
それでもほんのすこし、指輪のうえにくっついた宝石ぐらいの大きさで、彼女を慕う気持ちが残っていたのだ。だから、誰にも相談できないまま、香水は私の机と心に居直り続けたんだと思う。
万引きしたっていうのは過激な冗談で、本当は買ってくれたんじゃないかと思ったりもしたけど、そんなわけなかった。
やがて私の耳に届いた噂話によると、ミリアちゃん一派のあいだで「その日いちばん高価でデカいものを万引きした奴に、ひとり1品サイゼでおごる」とかいうゲームをやっていたらしい。バカだよなマジで。私もミリアちゃんも。
後日、ミリアちゃん一派がこぞって2週間ぐらい停学になった。
教師からの理由の説明はなかったが、生徒の間では暗黙の了解だった。彼女たちが断罪を受けたのだと認識した途端、ふっと心が軽くなった。
やっぱりギャルってこわい! 別次元の生き物なんだ! 地味で結構! オタク最高! 同志の友達こそ大切にしなきゃね!
それから卒業するまで、ミリアちゃんとの数少なかった会話もじょじょにフェードアウトしていった。香水の件にふれたこともない。彼女はきっと、私のことなんてきれいさっぱり忘れている。
もう10年も前のことなのに、現物を前にして当時のことを考えていたら気持ち悪くなってきた。
コンビニ行ってくる、と言い、部屋着のまま家を出る。ストゼロのロング缶を買い、あのマンションの公園のベンチに向かう。
開栓しつつ、高校の近くにあったドラッグストアの店舗を検索する。あのあたりじゃ1店舗しかない。潰れてませんように、と検索結果がでてくる一瞬の間に祈る。健在だった。
サイトに載っている閉店時間まで、10分を切っていた。締め作業中にヘンな電話きたら迷惑かな、やっぱ明日の昼間に……ていうか、今更こんなことする意味ある? あるあるある、じゅうぶんある。私の気持ちのためになる。
お店の電話番号をタップした。何コールかおいて、若い女性の声が応える。
「あのう、お忙しいところ失礼します。実はですね、えーっと……すごく昔なんですけど……10年前に友人がそちらの店舗で万引きをしまして……」
すごく情けない気持ちになってきた。店員さんも「は、はい?」みたいな相槌になっちゃってる。
「ちょっとあの……その品物を私が持ってまして……本人とはもう連絡が取れないんですが、代わりに謝罪をさせていただきたく……」
「えーっと、店長に代わりますので、少々お待ちください」
ピロピロした保留のメロディを聞きながら、ミリアちゃんとの一連の出来事がフラッシュバックする。地下鉄の構内に取り残され、狼狽えている17歳の私の手を、27歳の私がにぎる。
店長が出た。男性だった。さっき説明したことを、幾分すらすらと説明する。17歳の私が、隣で不安げに見あげてくる。
店長は困惑気味のうなり声を発した。そりゃそうだよな。
「それだけ昔になると、商品の在庫記録などももう残っていなくて、調べようがないんです。ですから、お気持ちだけで結構です」
「そ、そうですか。申し訳ありませんでした、すみません、ありがとうございます」
通話を切り、膝にスマホを置き、ストゼロをごくりと飲む。
妙なおかしさがせりあがってきて、涼しくやわらかい夜風の中、ひとりで声に出して笑いだした。
やっぱり私、ミリアちゃんにはナメられてたんかなあ。
でも、憧れていたシャネルのリップは、ちゃんと彼女が買ったものだと信じていたい。
こんどフクダさんと勤務が一緒になったら、リップは何を使っているかきいてみよう。それで、おそろいのやつを私も買おう。デパコスでもプチプラでもなんでもいい。月収15万で実家暮らしで高齢処女でもべつにいいや。まあどうにかなんだろ。
酒をグビグビ飲みすすめていると、ワンカップおばさんがワンカップ酒を持って現れた。彼女は私のベンチからすこし離れた、定位置に座った。
なんとなく目が合い、会釈すると、彼女は盃をこちらに掲げ、にこりと微笑んだ。私たちは空中で乾杯を交わした。
あの香水がどんな香りなのか、私にはまだわからない。
あまい子 小町紗良 @srxxxgrgr
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