第20話:なんなりとご命令を、マイマスター

――埼玉県川口市東部某所、『アクサムケバブ』本社工場

 東川口駅前通りを外れた郊外。

 森林地帯を抜けた先にポツンと食肉加工場が現れる。

 人統国では西戎人と呼ばれる、中央アジア系下級人統人が営む飲食企業の本社工場で、加藤とみくるは日雇い労働者として働いていた。

 賀茂村を脱出した彼らは、冴島の関係者が手を出せない人統国系の企業を選んだのだ。

「うぷ……臭い……気持ち悪い……」

 作業場から作業服を血みどろにしたみくるが、ふらふらと覚束無い足取りで出てくる。

 彼女が担当していた作業は羊を放血させた際の洗浄作業であった。

 しかしながら堪えがたい獣臭と血生臭さと糞尿の臭いから、みくるはこの日3度目のダウンを喫していた。

 通常、この手の施設は地方自治体が管理する食肉加工場などが請け負うのだが、アクサムケバブは経費削減のため自社従業員にそれを課していた。

 本来であれば生鮮食品を扱う作業員が作業場から出る際は作業着を脱ぎ、消毒も行わなければならないのだがみくるがそれをしていない辺り、その管理はとても十分なものとは言い難かった。

 しかしそんな管理体制と意識であったからこそ、加藤たちは日雇い労働者として糊口を凌げたとも言えた。

 みくるが作業場横のベンチで項垂れていると昼休憩のチャイムが鳴る。

 ドアが開くと息を切らせた加藤が現れ、みくるがいないか辺りを見回した。

「シュン君」

 みくるが加藤を呼ぶ。

 加藤は振り返るとみくるの元へ駆け寄った。

「みくるさん、大丈夫ですか!?」

 加藤は吐き気から顔を真っ青にしたみくるを心配する。

「う、うん……ごめんね、迷惑かけて」

 加藤の気遣いを、申し訳なさそうに謝罪するみくる。

「良いんですよ。俺、弁当貰ってきますから。一緒に食べましょう」

「うん、ありがとう」

 そう言って加藤はみくるを残して仕出し弁当が配給される休憩所へ走っていった。

 賀茂村から逃げてきたは良いものの、加藤に迷惑をかけ通しであったみくるは自身の不甲斐無さに打ちひしがれていた。

「うっ、気持ち悪い……トイレ……」

 吐き気を催したみくるが、トイレを求めて奔走する。

 人が集まっているところにはいきたくないと、施設とは反対方向へ走っていると、怒声と何かを叩く音がすることにみくるは気付いた。

 声のする方へ歩いていくと、そこは取り壊し予定の廃倉庫であった。

 中を覗き込むと片腕にギブスを着けた壮年の男が、古いSF映画に出て来そうな貧相なロボットを鉄パイプで殴りつけていた。

 それはコウ・キュウキとソフィアの元ボディーであった。

「BETAはまだ出来ないのか!?」

 冴島に切り落とされた右手首を闇医者に固定縫合させたコウは、ギプスを三角巾で吊りながら、苛立ちを隠せない様子でそれに折檻を加え続けている。

 廃倉庫の小窓から中の様子を覗き見していたみくるは、『BETA』と言う単語を聞き、中にいる連中は歩たちが賀茂村に拉致されたことと関係のあることだと直感し、咄嗟に物陰へ身を隠した。

 廃倉庫の中にはアムリタの製造装置と同様の設備が用意されており、ソフィアの元ボディーはコウに命ぜられBETAを開発しようと試行錯誤を繰り返していた。

 コウは白龍運送での抗争の末、赤羽と冴島を退け、第二交通機動隊も撒いた。

 BETAは逃したが開発者の助手であるソフィアが手に入ったのだから、コイツに作らせれば良いとコウは考えていた。

しかし手に入れたソフィアは肝心のBETAを開発したデータが丸ごと抜かれたコピーAIであったため、開発は難航を極めていたのだ。

「申シ訳アリマセン。私ノ記録メモリーニ、BETAニ関スルデータハ存在シマセン。ソノタメBETAヲ開発スル方法ヲ、私ダケデハ確立サセルコトガ出来マセン」

 コピーソフィアの謝罪を受け、コウは力一杯に振り下ろされた鉄パイプがコピーソフィアのボディーを叩き、鈍い音を倉庫内に何度も響かせた。

「そんな!! 言い訳が!! 通用するか!! ええっ!? すべて無駄骨じゃないか!! 本国にどう報告すれば良いんだ!? この役立たずが!!」

 コウは何度もコピーソフィアを鉄パイプで殴りつける。

 頭部のカメラレンズが割れ、腕のフレームが歪み、脚のフレームが歪み始めた辺りで、コピーソフィアは姿勢を維持出来ず、その場に倒れてしまった。

「ヤ、ヤメテクダサイ。コレ以上ノ損傷ハ、作業ニ支障ヲ来タス可能性ガアリマス」

「……くそっ!」

 起き上がろうとするが上手く立てずに転ぶコピーソフィアを見て、息を荒げながら毒吐くコウ。

 その様子を、入口から眺めている男がいた。

「随分荒れてるネェ、旦那」

 男の名はアクサム・ゲジェレム。

 アクサムケバブの社長であり、コウを匿った在日西戎人である。

 アクサムは過度に装飾の施された扇子を担ぎながらコウの元へ歩いていく。

 その扇子は、黒龍商会会長、キム・カビョウが持っていた扇子であった。

「……そちらは楽しそうですね、アクサムさん」

 懐から出した鎮痛剤をラムネ菓子のように齧りながら、皮肉を言うコウ。

「そりゃそうネ。黒龍商会のシマは私が引き継ぐことになったし、旦那が卸してくれたアムリタ、飛ぶように売れるヨ。この調子じゃワタシの故郷に宮殿建てられるネ」

 片言の日本語で嬉々として儲けを語るアクサム。

 コウは自分たちを匿う報酬として、アムリタを彼に分け与えたのだ。

「……それは結構」

 コピーソフィアの折檻に疲れたコウは倉庫の隅のソファに腰かけると、鎮痛剤で粉っぽくなった口の中をミネラルウォーターで潤した。

「アムリタは凄いネ。飲めば不安が消し飛んでハッピーなれる。他のドラッグみたいなバッドトリップも無い。飲んでしまえば証拠も残らない。この国のバカども全員ヤク漬けになる日も近いヨ」

 コウの皮肉も届かず爛々と目を輝かせたアクサムは話を続ける。

 そのテンションの高さに、まさかとコウは不信感を抱いた。

「飲んだんですか、あなたも?」

 コウはアクサムに尋ねる。

 アクサムはニカッと白い歯を見せた。

「そうヨー。こんな良いモノ、ニホンジンだけに売りつけるなんて勿体ないヨ。皆んなでハッピーなろうヨ」

 アクサムもアムリタ常習者になっていることを知り、コウは内心ほくそ笑んだ。

「……それはそれは」

 アクサムの笑顔がピタリと止まる。

「ところで追加の口止め料を貰いにきたヨ」

 アクサムの話に、コウは小さく舌打ちをした。

 手持ちの資金は尽きており、追加の資金を調達するにも、現状を報告しようものなら本国から作戦失敗と見做されかねないため、コウはそれが出来ずにいた。

「……薄汚い金の亡者が」

 アクサムはそれを見越して、コウに金をせびりに来たのだ。

 いまのままでは関係は五分。

 ここで追い込んでこの男に恩を売っておこうとアクサムは考えた。

 その目論見も見透かしているコウは、彼を侮蔑する。

「金はチカラヨ。金を持ってるやつ、持ってないやつに何をしてもいいヨ。旦那の国もそうやってきたネ、私の国に。だから私もそうする。なにが悪いカ?」

 人統国は侵略国家である。

 増え過ぎた本国国民を食わせるために、近隣諸国を金で、武力で侵略し、支配した国の資源を本国国民に還元する。

 アクサムの故郷も元は別の国であったが、人統国の浸透戦略に屈し、いまは下級人統国として搾取され続けている。

 アクサムはコウに恩を売ることも目的ではあるが、人統人への意趣返しでもあった。

「失礼。あまりに躾がなっていないので少し本音が出てしまいました」

 コウは敢えて、アクサムを煽った。

 まるで犬か猫のように言われたことにアクサムは顔を引き攣らせ、懐からマカロフを抜き、コウの眉間に銃口を押し付けた。

「ちょっと言葉の使い方悪いヨ旦那。警察にチンコロされたいカ? それともここで羊と一緒に丸焼きなるカ?」

 アクサムが引き金に指をかけ、コウを脅す。

 彼は背後から人が近付いていることに気が付かなかった。

「どれもお断りですよ。ワンワン!」

 コウは犬の鳴き真似をしてアクサムを煽る。

 アクサムが引き金を引こうとした時、彼の背後に現れたミンが電撃を放ち、気絶させた。

「はわわわ……ど、どうしよう……」

 一部始終を目撃してしまったみくるは、気付かれないよう小さくなるしかなかった。


――練馬区、光が丘、安達家

 翌日の夕方ごろ、両手いっぱいに土産を抱えた歩たちが帰宅した。

「ただいまー」

 玄関で帰宅の旨を伝えるが、誰からも返事は無かった。

 玄関に置かれた靴を見る限り、真理も桐谷もいることが分かっていたため、返事が無いことに歩は違和感を覚えた。

「……まだ怒ってんのかよ。たーだーいーまー」

 返事が無いのは、真理がまだ怒っていて桐谷が締め上げられているのかと予想した歩は大声で再度帰宅を報せた。

 するとしばらくして、リビングからソフィアが出迎えに現れた。

「歩サン、オカエリナサイ」

 相変わらず抑揚の無い機会音声であるが、どこか様子が変だと歩は感じた。

「お前ウチに来てたのかよ。ってことは桐谷さんたち居んだろ? お土産沢山買ってきたぜ」

 ソフィアの挙動不審に違和感を覚えたが、無視して土産袋を掲げて得意げにする歩。

 すると続いて桐谷がリビングから顔を出した。

「あ……歩くん……おかえり……」

 憔悴し切った表情の桐谷を見て、ぎょっとする歩。

「ど、どうしたんだよ? 顔色悪くない? ヨウさんは?」

 幽霊みたいに青褪めた桐谷の顔に、どこか体調が悪いのかと歩は心配そうに尋ねる。

「……ちょっと、こっちに……」

 桐谷は絞り出すような声で歩をリビングへ来るように手招きした。


 リビングは無人で、その奥にあるダイニングテーブルには椅子に座り、頭を両手で抱えるように突っ伏していた真理の姿があった。

 旅行に行く前夜のやり取りを思い出し、まだ謝るタイミングが掴めてなかった歩は気まずそうに視線を泳がせる。

「……真理ちゃん、ただいま」

 なんとか声を出して、真理に帰宅を伝える歩。

 真理は微動だにしなかった。

「……いままでどこほっつき歩いてたの?」

 しばらくの沈黙の後、真理は地獄の亡者の呻き声のような、怨嗟に満ち満ちた声で歩に尋ねた。

 髪もボサボサに振り乱したその姿は般若のようで、寒気がするほどの恐怖を覚えた歩は思わず後退る。

 歩は真理がここまで怒る理由を考えたが、彼には旅行に出発する前のやり取りしか思い浮かばなかった。

 となると自分たちに非は無いのだからと、歩は踏み止まって毅然とした態度で真理に言い返した。

「……いのりの合宿あとの観光に付き合ってたんだよ。そんな言い方無くね?」

 歩の反論を無視し、真理はリモコンでテレビを点け、ニュース番組にすると歩に聞こえるように音量を上げた。

『夕方のニュースです。先日大田区平和島で暴力団とマフィアにより発生した銃撃事件に関する続報です』

 ニュースの内容は歩たちが大立ち回りをした白龍運送倉庫の話であった。

 歩は荷物を置き、リビングのテレビの前に立つ。

 自分が関わった事件がニュースになっている。

 歩はトー横の件に続き、また英雄になってしまったと意気揚々とニュースを眺めた。

『抗争の原因はわかっておらず、現時点で双方に十数名の死傷者が出たことがわかっており、現場にて多数の銃火器が押収されました。警視庁は主犯と思われる元雲雀任侠会幹部の冴島三郎容疑者と黒龍商会会長、キム・カビョウ容疑者の行方を捜索中です』

 真犯人はコウ・キュウキなのに名前が出てこない。

 相手は国際テロリストだから政治的な配慮とかなのだろうかと、歩は首を傾げた。

 そして歩は、ソフィア、桐谷、真理の三人の様子がおかしかった理由を知る。

『またこの事件に際して、現場に居合わせた新宿警察署刑事部所属の赤羽耀司警部が遺体で発見されました。赤羽警部は数日前に発生した歌舞伎町銃乱射事件、トー横大量殺人事件の捜査を担当しており、警視庁は本件との因果関係を調べていく方針です』

 歩は頭の中が真っ白になった。

 何も考えられなくなり、呼吸の仕方も、心臓の動かし方も身体が忘れてしまったかのように、歩の時間が停まった。

 上田家の方から、いのりの泣き叫ぶ声が聞こえる。

 脚に力が入らず、平衡感覚が無くなり、卒倒するように歩は転倒した。

 倒れた歩を介助しに、桐谷が彼の元に駆け寄る。

 桐谷が歩を抱き起している隙間に真理は外に出て、裸足のまま早足で物置に一直線に向かった。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 物置から戻った真理は目を血走らせ、過呼吸になりながら金属バットを引き摺って、再び家に入った。

「真理さん、なにを……」

 真理は金属バットを振り上げ、ソフィアの前に立ち塞がった。

「死ねぇ!!」

 渾身の力で金属バットを振り下ろす真理。

 ソフィアはそれを避け、フローリングの板材が割れて陥没した。

「落チ着イテクダサイ」

「避けんなゴルァ!!」

 ソフィアは真理を落ち着かせようと試みるが火に油を注ぐだけにしかならなかった。

 真理はソフィア目掛けて金属バットを振り回し、そのたびに家具は痛々しく無惨に破壊されていく。

「真理さん! ダメです!」

 桐谷が真理に飛びつき、羽交い絞めにして押さえ込む。

 振り解こうと全力で抵抗する真理。

「放せよ!! コイツがいなきゃこんなことにはなってねぇんだよ!!」

 上半身の自由が利かなくなったのでせめて蹴りを入れてやろうと、真理の足が何度も空を切る。

「申シ訳、ゴザイマセン」

 真理と十分に距離を取ったソフィアは、真理に謝罪を述べる。

「機械の分際で人間様にクチ聞いてんじゃねぇ!!」

 その様子がさらに気に入らなくて真理は一層声を張り上げてソフィアを罵倒する。

 再び振り解こうと真理は試みたが桐谷は力を強めた。

「ソフィアは保護対象です! 壊してしまうとまとまるものもまとまらなくなります!」

 桐谷は真理を説得する。

 桐谷はソフィアがいないと事件は解決しないと考えている。

 だからなんとしてもここで真理にソフィアを壊されるわけにはいかなかった。

「知らねんだよ!! そんなこと!!」

 真理は金属バットを捨て、体重をかけて台所まで移動する。

 流し台に二人がぶつかる。

「ソフィアたちはイエローノッティスです! インドから行方不明者だと表明されてるんです!」

 真理は流しからフォークを掴み、桐谷の腕の拘束を解こうと、彼の腕を何度も刺す。

 腕から血を滲ませながら、桐谷は話を続ける。

「インドと人統国は冷戦状態です! テロのあと身柄の奪い合いを恐れたインド政府が発行したのでしょう! 彼らはインド政府からすでに見捨てられているんです!」

 インド政府はコウたちがシュルティ博士とソフィアの身柄欲しさに第二、第三のテロを起こしかねないと判断し、彼らを国外に追い出し、国際警察に行方不明者として登録させた。

 つまり彼らはインド国内にはいないと公的に示したのだ。

「だからソフィアたちは日本に来るしかなかった! 道中、様々な国を訪れた際に北アメリカ大使館は必ずあったはずです! しかし彼らは日本まで来た! 来ざるを得なかった! 見捨てられ続けたんです!」

 以前ソフィアが歩たちに説明していた通り、彼らは陸路で移動するしかなかった。

 その際に訪れた国でいずれも彼らは、門前払いを受け続けていたのだ。

「くっ……!」

 関わり合いになりたくないと言われ、拒絶され続けた。

 その境遇に真理は自分に近いものを感じた。

「あなたも見捨てるんですか!?」


 16歳の頃。

 雨夜の歌舞伎町。

 四月を迎えたのに吐く息は白く、指先は氷のように冷たかった。

 赤ん坊の歩を抱え、西武新宿駅近くのガード下で蹲っていた。

 道行く誰もが関わりたくないと憐れみと拒絶の目を向ける中、手を差し伸べた人がいた。

 それが赤羽耀司だった。


 真理の脳裏に当時の思い出が過ぎる。

「ぐううううう!!」

 真理はフォークを落とし、その場に崩れ落ちた。

「お気持ちはわかります。僕だって悔しくて頭がどうにかなりそうです。ですがソフィアを一時の感情で壊してしまうのは何の解決にもなりません。どうか堪えてください」

 真理にソフィアを破壊する意思が無くなったことを確認した桐谷は、そう言うとダイニングキッチンを片付け始めるのだった。

「あああああああ!!」

 真理は身体がバラバラに砕け散りそうになるような声で泣き喚いた。

「……そんな……ヨウさん」

 歩は呆然と、リビングにへたり込んでいた。


 桐谷の介助で部屋まで送ってもらった歩は、その後も上の空であった。

 歩はまだ赤羽の死が理解出来ず、どこかフィクションのように感じていた。

 何も考えず、天井を眺めているとドアをノックする音が聞こえた。

「……いま、大丈夫かい?」

 桐谷がドアを開き、入ってきた。

 歩の表情を窺った桐谷は、大丈夫そうだと判断し、彼の前に座る。

「……真理ちゃんは?」

 気怠そうな声で、桐谷に真理はあの後どうしたのか尋ねる歩。

「泣きつかれて眠ったよ」

 苦笑いをして、桐谷は答えた。

「……そっか」

 歩は桐谷の言葉に素っ気無く返事をする。

 しばらくの沈黙のあと、桐谷は懐からあるものを取り出した。

「そうだ、これ……」

 それは赤羽が大事に持っていた月面旅行のチケットであった。

「これ……」

 歩も同じチケットを持っている。

 10年前、タロが死んで塞ぎ込んでいた歩は、見かねた赤羽に同じものをもらっていた。

 机の奥に閉まっていて忘れていた歩であったが、そうだ、あの時もこんな風に渡されたと思い出した。

 赤羽のチケットは何度も取り出しては撫でていたのか、所々手垢で汚れ、紙も皺くちゃになっており、いまにも崩れてしまいそうであった。

「ヨウさんの遺留品にあった。君が持っておくべきだと思う」

 桐谷は歩に告げ、手渡した。

 チケットを受け取った歩は、じっとそれを見つめる。

 一寸間を置いて、歩の持つチケットに、大粒の涙が落ちた。

「……うう、ぐううううう!!」

 歩は声を押し殺すように泣いた。

 大粒の涙がボロボロと、無数にチケットに降り注いだ。

 歩はこの時、漸く赤羽の死を理解した。


 涙が枯れた頃、歩は顔に残った涙の跡を拭った。

「……ソフィア、いるんだろ? 出てこい」

「ハイ」

 歩は見もせず、そう言うと部屋の外からソフィアはよそよそしく現れた。

「お前は俺に貸しがある。二つも」

 顔を伏せ、歩は話を続ける。

「私ニ出来ル事デシタラ、ナンナリト仰ッテクダサイ」

 歩の言葉にソフィアは頷いた。

 歩はソフィアの返答を聞き、天井を見上げた。

「俺は、ヨウさんの仇を討ちたい。協力しろ」

 歩の言葉に、桐谷は驚く。

「歩くん!」

 自棄になったかと止めようとした桐谷であったが、それを歩は制止した。

「捕まえるんだろ? 俺も協力するよ。なにせ俺らは奴らにとって最高の餌だ」

 そこには覚悟を決めた男の眼差しがあった。

 瞳の奥で静かに燃える歩の決意に、桐谷は息を呑んだ。

「カシコマリマシタ。私モ準備ガ整ッタトコロデス」

 ソフィアは歩の命令を承服すると、押し入れの戸を開けた。

 すると大量の液体が部屋に流れ出す。

「うわっ!?」

 突然のことに驚く歩と桐谷。

 液体の流出が止まった頃、押し入れ下段、以前ビニールプールを押し込んだ辺りからなにかが這い出てきた。

「……えっ?」

 それはネモフィラの花のような蒼い髪をした十六歳くらいの少女であった。

 少女が立ち上がる。

 少女は一糸纏わぬ姿であり、全身にシュルティ博士、ミンと同様の紋様が施されていた。

「君は、ソフィア、ちゃん、なのか?」

 唖然とする二人であったが、辛うじて桐谷が、目の前の少女の正体を尋ねる。

「はい。BETA細胞で有機体を精製しました。私自身が、BETAそのものです」

 ソフィアは桐谷の質問に答えると歩の前に跪いた。

「……歩さん」

 ソフィアは歩の顔をじっと見つめる。

「……な、なんだよ?」

 全裸の少女が自分の前に跪いていて、歩は目のやりどころに困りながらも、返事をする。

 歩の返事を受け、ソフィアは首を垂れた。

「私たちのせいであなたの大切な家族を失ってしまったこと、大変申し訳なく思っています」

 跪き首を垂れていたソフィアは正座に座り直し、三つ指を着いて平伏する。

「赤羽警部の代わりにはなれませんが、今日限り私はあなたに一生の忠誠と隷従を誓います。私はあなたのものです」

 顔を上げたソフィアは、再び歩を見つめる。

「なんなりとご命令を、マイマスター」

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