epilogue1

《蹄》宗主ユングヴィの死は、瞬く間に戦場を駆け巡った。


 当初は戦場ではよくある虚報であろうと信じなかった《蹄》の兵士たちだが、沈黙し続ける本陣に、兵達の間にだんだんと疑念が広がっていく。

 ユングヴィは決して兵達の動揺を放置するような人間ではない。

 これまでも兵が混乱していると見るや即座に指示を飛ばし、兵たちを安堵させ鼓舞してきた男だ。

 彼が生きているのなら、虚報が流れてると知るや必ずその健在ぶりを誇示していたはずである。


 それがいつまで経ってもない。

 事ここに至り、先の虚報は真実だったのだと兵達も悟り出した。

 途端、彼らは足元の大地がガラガラと崩れ落ちるかのような不安に襲われた。


 ユングヴィがいたから勝利を疑わずに戦えたのである。

 あの勇猛で強かった宗主を討ち倒すような相手にどう勝てというのだ!?


《蹄》の兵士たちのほとんどは、将校クラスを除いてはほとんど農民や奴隷である。

 強制的に徴用された者達だ。

 やがて武器を捨て逃げ出す者が現れ始める。


 一人が逃げ出せば、それに釣られてまた一人、二人と次々と脱走し始めるものだ。

 たちまち《蹄》はそれまでの強固な結束がなかったかのように統制を失い、瓦解した。


 逆に《狼》・《角》連合軍は、敵大将戦死の報に俄然その勢いを増してきている。

 まだユングヴィに代わり全軍の指揮を取れるような副将ともいうべき存在がいたならば持ちこたえられたやもしれないが、あまりにユングヴィが偉大すぎた。

《蹄》にはユングヴィの手足として有能な一軍の将はそれこそ数多くいたが、その代わりを務められるような者は一人としていなかったのである。

 無様に潰走する《蹄》の姿に、《狼》・《角》連合軍は大いに勝鬨を上げたのだった。



 翌日、《角》の族都フロージでは、戦勝を祝うお祭りが街をあげて盛大に行われていた。

《狼》・《角》両氏族を祝福するかのように、空は雲ひとつなく晴れ渡っており、絶好の祭り日和である。

 街の至る所で笛の音や太鼓の音が鳴り響き、人々は自分たちの生活が踏みにじられることなく守られたことを心から喜んでいた。


 街の中央にある広場では、両氏族の兵士たちが酒を酌み交わしている。

 犬猿の仲の人間同士を仲良くさせるには共通の敵を作るに限る。

 長年、仇敵として相争ってきた彼らだったが、今回の大勝利で過去の遺恨を完全とは言えないまでも多少は流すことができたようだった。

 そんな兵たちの下品で野太い笑い声を遠く耳にしつつ、勇斗は大きく息をついた。


「今度こそこれで一段落、かな」


 絶対のカリスマであったユングヴィの死は少なからず《蹄》国内を混乱させるだろう。

 若頭が跡を継ぐにしても、しばらくは自国内をまとめ、自らの権力基盤をかためるのに手一杯のはずだ。

《角》と国境を接する隣国にしても、大国を完膚なきまでに打ち破ったのだ。

 そんな相手と好き好んで事をかまえようとする国もそうそうあるまい。

 とりあえずは《角》を襲った未曾有の危機は去ったと見ていいだろう。


 しかし、まだまだ問題は山積みである。

 覇者ユングヴィの死の影響は、《蹄》領内の混乱にとどまらず、虎視眈々と隙をうかがっていた周辺諸氏族の野心をいやおうなく刺激するはずだ。

《角》一国だけを見れば平和になったが、アールヴヘイム地方全体で見れば、今回の戦でかなり不安定化したともいえる。

 その動乱に、《角》が巻き込まれるようなことがあれば、《狼》としても今回のように関わらざるをえないケースもでてくる。

 依然、予断を許さぬ状況なことは確かだった。


 二一世紀へ帰る方法も未だ暗中模索だし、その時のための準備もしなければならない。

《角》や《爪》との盃事は、あくまで勇斗が交わしているものであり、彼がいなくなった後も友好関係を続けられるような段取りを行う必要もあるだろう。

 考えるだけで頭が痛くなってくる。

 だが差し当たっての問題と言えば――


「うむ、いい湯だ。生き残った甲斐があったというものだな」

「というか生き返りますわね。は~、疲れがとれる~♪」

「なんかおばさん臭いぞ、フェリシア」

「おばっ!? わ、わたくしがおばさんなら貴女だっておばさんでしょう、ルーネ! たった七日しか違わないんですから!」

「まだそれを根に持っているのか。おまえもいい加減しつこいやつだな」

「たった七日で人生が狂ったわたくしの気持ちは貴女にはわからないですわ!」


 ――フェリシアとジークルーネが勇斗をはさむようにして口論を始めたことだろうか。

 ただでさえ今は精神的にいっぱいいっぱいだというのに、正直勘弁して欲しい勇斗であった。


 ここはフロージの宮殿内にある大浴場である。

 普段は身分ある者や神官など聖職にある者が身を清めるために使っている場所だ。

 よって当然ながら、二人とも一糸まとわぬ生まれたままの姿である。

 しかも男の自分がいるというのに隠そうともしない。


 先程から小難しいことを考えていたのは、ただの現実逃避に他ならない。

 それでもチラッチラッとついつい視線が二人のほうに動いてしまうのはやはり男の本能というべきか。

 我慢しなくては、と理性は訴えるのだが、どうにも制御がきかない。

 ちょっとした水音に反応してついつい視線が吸い寄せられてしまう。


「ふふっ、そんなに気になるのでしたら、堂々とご覧になればよろしいのに。わたくしの心と身体は、全てお兄様のものなのですから」

「だーっ! 色々と人聞きの悪い事言うな! 俺は何も見てない。気にならない!」


 邪な視線をあっさりと勘づかれ勇斗は逆切れして誤魔化そうとする。

 もっともフェリシアの生暖かい目を見る限り、完全に失敗しているようだったが。


 いったいなんでこんなことになってしまったのか、思わず勇斗は自問自答する。

 勇斗は《狼》の族都イアールンヴィズでは基本的に一人で風呂に入っている。当初は侍女などが世話しようとしてきたのだが、「風呂ぐらいゆっくり浸からせろ!」と固辞していた。


 しかし、ここはつい先日まで骨肉の争いを続けていた《角》の本拠地である。

 その身に何も帯びずに一人になど絶対にするわけにはいかないとフェリシアが強硬に主張したのだ。

 それなら風呂に入らずとっととイアールンヴィズに帰ってしまいたい勇斗ではあったが、これから宮殿内でも勝利を祝う宴が予定されていた。


 当然、《狼》の宗主である勇斗は出席しないわけにはいかず、また、そもそも勇斗はこの戦を勝利へと導いたまさに主役でさえある。

 とは言え勇斗はここ数日の旅路で汗と埃で真っ黒になっていた。曲がりなりにも両氏族の公式の宴である。身奇麗な格好で出なければ《狼》の沽券に関わった。

 状況は完全に詰みの状況にあり、今や勇斗は二人の美女に挟まれ、赤面しつつ身体を子猫のようにまるめ小さくなっていた。

 大国を完膚なきまでに打ち破った英雄の威厳はすでにどこにもない。


「ううっ、なんで護衛がお前らなんだよ。よく考えたら男でもいいじゃねえか」

「あら、いつもお兄様の護衛をしているのはわたくしじゃありませんか」

「ここは元敵地ですからね。フェリシアだけでは少々不安です。『最も強き銀狼(マーナガルム)』のわたしこそ最もこの任務には適しているかと」

「そうですわね、わたしも同性のルーネなら肌を見られても気にならないし」

「俺が異性だってこと忘れてね!?」

「「お兄様(父上)は特別ですから」」


 二人同時にきっぱり言い切られ、勇斗はぶくぶくと湯船の中に沈んでいく。

 このことが美月にバレたら俺は絶縁されるかもしれん、と風呂で温まっている最中だというのに寒気に身震いする。


 美月といえば、バタバタしていて遠征することを伝えていなかったことを今更ながらに思い出す。

 今頃、連絡がないことに相当心配していることだろう。

 だというのに自分はなにを浮ついたことをしているのか。


「お、俺、もうさっさと身体洗って出るわ。準備もあるし」


 なんともいたたまれなくなり、慌てて立ち上がるや勇斗は洗い場へと向かう。

 裸を見られるのが少々恥ずかしくはあるが、すでに入る時に見られており抵抗感は薄れている。

 この場からさっさと立ち去るのが何より先決だった。

 君子危うきに近寄らず、である。


「っ! お待ちください」


 ジークルーネはそばに立てかけてあった愛刀を手に取るや立ち上がり、勇斗を制する。

 その厳しい口調に、曲者か、と緊張とともに彼女の方を振り向き、硬直する。

 湯気でよく見えなかったが、そこにはフェリシアに比べればかなり小ぶりではあるが、おわん型の形の良い――


 ぐるんと大慌てで視線をジークルーネが睨む出入り口のほうへと向ける。

 耳を澄ませると、何かをやりとりする声が聞こえた。


 誰か来たのだろうか。

 壁を隔てた浴場の入口付近は、ジークルーネ直属のムスッペル隊の精鋭たちが固めている。

 正面から堂々と来たということは不審者ではないようだが、と勇斗が首を傾げていると、やがて入り口あたりに人影が立った。


「まったくうちのガキどもは何をしている。誰も通すなと言っておいたはずだぞ」


 苛立たしげに吐き捨て、ジークルーネはザブザブと数歩前に進み出る。

 そうすると必然的に彼女の引き締まった真っ白なお尻が勇斗の視界に入るのだが、入り口のほうから視線を離すわけにもいかず、危急の時だとわかってはいるのだが気まずい勇斗であった。


「兄上」

「リネー……ア?」


 充満する湯気に相手の姿はよく見えなかったが、その声には聞き覚えがあった。

 不審者ならともかく、この宮殿の主であり彼らの宗主の妹分だ。

 警護のムスッペル隊としても無下に追い払うことができず通したのだろう。


 やがて湯気の中を抜けて、リネーアが現れる。

 前は布で隠してこそいるものの、太ももや脇腹など肌色成分が多すぎてなんとも目のやり場に困る勇斗だった。


「何用ですか、お姉さま?」


 フェリシアが冷たい声で問う。

 彼女のほうが勇斗の妹になったのは先なので、順番から言えば彼女のほうが姉なのだが、《角》宗主というリネーアの立場を慮ってだろう。


「《角》の宗主として、大事な話があります」

「待て、何もこんなところで大事な話をしなくてもいいだろう! 後でちゃんと聞くから今はとりあえず……」

「それは裸の付き合いと言いますか、腹を割って話すにはここしかないかと」

「ふん、その割には前を隠しているようだがな」


 つまらなさそうにジークルーネが鼻を鳴らす。

 何事もシンプルな彼女には、その行為は見苦しく映ったのだろう。

 実に彼女らしい言葉ではある。

 あるのだが、勇斗は内心悲鳴を上げた。

 そんな煽りを入れたら、


「……貴女の言うとおりだな」


 はらりと彼女の前を隠していた布が落ちていく。

 やっぱりか! と勇斗は頭を抱えたくなる。

 右も左も前も肌色に囲まれてしまった。


 とりあえず視線をなるべく下に向けないように意識はするのだが、あまりそっぽを向くのも外交的に失礼だ。

 いったいどんな拷問だ、と勇斗は泣きたくなった。


「それで、いったいどのようなお話です?」


 まともにリネーアのほうを見れない勇斗に代わり、フェリシアが続きを促す。

 リネーアは一瞬だけ視線をさまよせるも、キッと真剣な眼差しで勇斗を見つめて言った。


「兄上! ボクと結婚してください!」


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このシーンは書籍版においては、ゆきさん先生の美麗なイラストにより挿絵化しております(笑)

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