第二七話
「リネーア、待たせた」
勇斗率いる《狼》の本隊が、フロージに到着したのは、リネーアに遅れること四日、すぐそこまで《蹄》の足音が聞こえていた《角》にとっては一日千秋の思いで待ち望んでいたようやくの援軍だった。
とは言え、兵の進軍速度は最も遅い兵種に依存する。
歩兵中心の《狼》としてはこれでもかなり早い到着であった。
先の戦いではさんざん《角》の軍を蹴散らした憎き敵ではあるが、ゆえにこそその強さはユグドラシルのどの氏族よりも思い知っている。
街の中央広場に集結した《狼》の軍に《角》の民は頼もしげな視線を向けていた。
「敵は今どの辺だ?」
出迎えに来ていたリネーアに、勇斗はチャリオットからヒラリと飛び降りつつ問う。
勇斗と視線が合うや、リネーアの顔がボンッと音さえ聞こえそうな勢いで、朱に染まる。
「えっ!? うぇっ!?」
「ん? どうした、風邪か? 言いたくはないが、たるんでるぞ」
「い、いい、いや! これから戦だから高揚してるだけ! それだけだから!」
「おいおい、それはそれでちょっと気負い過ぎだろ。総大将は冷静じゃないと務まらねえぜ?」
呆れた声とともに、勇斗の顔がいかにも不安げにひくつく。
総大将は兵士たち全員の命を預っているのだ。
わずかの判断ミスが多くの人間の生死を左右するのだ。
友軍の大将がこんな状態では、あまりに頼りなさ過ぎた。
「あ~もう! ラスムスが変なこと言うから。意識しちゃって兄上の顔が見れない~っ!」
「あん? なんか言ったか?」
「いえ、なんでもありません!」
「そうか。で?」
「はい? で、とは?」
ポカンと呆気にとられた風なリネーアに、勇斗はガシガシと苛立たしげに頭をかきむしる。
「だから! 敵は今どの辺だって聞いただろ!」
基本的に護るべき対象と認識している女子には甘い勇斗だが、さすがにこの一刻を争う状況では我慢の限界だった。
言葉が少々荒っぽくなってしまうのも仕方がなかったろう。
リネーアは「あっ!」と我に返ったように表情を引き締め、
「も、申し訳ありません! 斥候の話から計算すると、おそらくここから徒歩で半日ほどのところまで迫っている頃かと」
「半日か。ふぃー、ギリギリだったな」
「本当に。到着したらすでに街を落とされていた、なんて最悪な状況も想像していただけに、正直ほっとしました」
勇斗の隣で、副官のフェリシアも安堵の吐息を零す。
しかしついで、リネーアに視線を向けるや、はぁっと重い溜息をつく。
「まあ、お兄様は落としてしまったようですが。これもお兄様の器量のなせる業なのでしょうが、まさか他国の者まで見境なしとは……」
「いやいや、俺が前に落とした砦とは、規模が違うだろ。さすがにこんなでかい街落とすのは難しいぞ」
「ふふっ、お兄様なら戦わずに落とせそうですけどね」
思わせぶりに笑うフェリシアに、いったいどこまで自分を過大評価すれば気が済むのか、と勇斗は憮然となる。
フェリシアの言葉の真意には、まったく気がついていないようだった。
もっとも、それを責めるのは酷ではあった。
今の勇斗は、いかにしてこの戦いに勝つかで頭がいっぱいだったのだから。
そのためには、しなければならないことが山ほどある。
とりあえず差し当たっては――
「よし、とりあえず……飯だ!」
どかっとその場にあぐらを組み、勇斗が高らかに叫ぶ。
副官であるフェリシアは粛々と周囲の者たちに食事の準備をするように指示を出し始めたが、リネーアは呆気にとられたようにポカンとした後、目を剥いた。
「ちょっ、飯って何を悠長な! 兄上、すぐそこまで《蹄》は迫ってるんですよ!? ただでさえ数の上では不利なのですから、有利な場所に陣を敷くためにも急がないと……」
「『近きを以って遠きを待ち、佚を以って労を待ち、飽を以って餓を待つ。これ力を治むるものなり』だぜ、リネーア」
「はい!? な、なんですか、それは?」
突如、そらんじられた勇斗の難解な言葉に、リネーアは鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。
ほとんど意味がわからなかったようだ。
「二五〇〇年もの間、色褪せることなく讃えられた偉大な兵法書『孫子』の一節さ。有利な場所に陣取って遠来の敵を待ち伏せし、十分な休養を取って敵の疲れを待ち、腹一杯食べて敵の飢えを待つ。これが『力』を掌握するってことらしいぜ」
偉そうに知ったかぶっている勇斗だが、実はほとんど解説書の受け売りである。
当たり前のことのようで、実に含蓄のある言葉だと勇斗は思う。
改めて、この兵法書を著した孫武に尊敬の念を抱かずにはいられない。
なにせ、今の《狼》の状況にまるまる当てはまるのだから。
「はるばる遠くから来て、疲れてて、飯もろくに食べてない。こんなんじゃ力を発揮できるわけがない。だから……飯だ!」
茶目っ気たっぷりに勇斗は目配せし、口の端を釣り上げる。
「な、なるほど、さすがは兄上です! まさかそのような太古の兵法書にまで精通しておられるとはっ!」
心底感嘆したように、リネーアは何度となく相槌を打った。
散々勇斗には煮え湯を呑まされた彼女だったが、今や百万の加勢を得たかのような心強さを感じていた。
今の彼の言葉を心に刻み込んでおこうと反覆しようとして、ふと気づく。
「あの、でも、有利な場所に陣取るべき、ではあるんですよね? 悠長にしていれば間に合わないのでは?」
「『人に後れて発するも、人に先んじて至る。此れ迂直の計を知る者なり』。大丈夫、すでに手は打ってあるさ」
「お、おおおっ!」
リネーアが頬を昂揚させ、感激に声を震わせる。
完全に陥落した瞬間であった。
勇斗を見上げる彼女の瞳は、もはや心酔の域にまで達している。
だから、彼女は気づかなかった。
自信満々そうに振る舞う勇斗の拳が、ギュッと固く握り締められていたことに。
「ルーネ……死ぬなよ」
リネーアに聞こえぬよう、ボソリと呟く。
宗主として、最も適した人材だから送り出した。
その判断に間違いがあるとは今も思わない。
しかし、ジークルーネは勇斗にとってこの世界で最も親しい友人の一人である。
そんな人間を死地へと赴かせたという事実は、勇斗の心をとかく苛立たせた。
「お兄様、ルーネなら大丈夫ですよ」
力強くそれでいて優しい声が、勇斗の耳朶をくすぐった。
先程のつぶやきは聞こえていないはずなのに、不安をあっさり言い当てられていたことに、思わず勇斗は涙が零れそうになった。
この優秀なる副官には、とても隠し事はできそうにない。
そっと立ち上がり、フェリシアの耳元に口を寄せ呟く。
「俺は……戦うことが最善だと判断を下した。それが《狼》という組織にとって間違っているとは思わない。でも……降伏して国を明け渡せば、みんな死にはしないんだよ、な」
戦うことを決断した自分が、今更こんなことを言ってはいけないのはわかっている。
自分の弱さに反吐が出そうになる。
それでもどうしても、迷いが心を蝕んだ。
奴隷として過酷な労働を強いられても、重税を課せられ今より生活が苦しくなっても、死ぬよりはましなのではないか。
《狼》の民を守るために《狼》の民を死地へと向かわせる。
自分はただいたずらに人を殺しているだけではないのか。
戦いになるごとに、脳裏を幾度となくよぎってきた矛盾だった。
「お父様、わたくしは奴隷の平和は望みませんわ」
フェリシアがその瞳に強い意思を讃えて、はっきりと言い切る。
「ここに集っている皆も同じでしょう。いったい誰が、妻に、祖父母に、兄弟姉妹、そして子どもたちに、苦しく辛い思いをさせたいと思うのでしょう? 家族を守るために、我らは遠きこの地に集ったのです!」
「みんな俺と思いは一緒……か?」
そんなはずがない、と勇斗の頭の片隅で理性が囁く。
どんなに苦しくても死ぬよりはいいと思っている人間だっているはずだ、と。
だがそれでも、誰かに認めて欲しかった。
自分は間違っていないと。
誰かを守ろうとすることが、より多くの死につながることも多い。
冷静な判断を下すためにも、少しでも迷いは払っておきたかった。
「はいっ! あなたはわたくしたちの宗主なんです。あなたが黒と言えば白でも黒と言い、戦えといえば戦い、死ねと言えば死ぬ。そう、わたくしたちにとって貴方は絶対の存在なんです! わたくしたちの命はとうの昔に、盃とともに貴方に預けたのです。だから……いくらでも好きに使ってくださいませっ!」
「……ったく、宗主ってのは因果なもんだぜ」
何をしてもいい、何をしても許される。
全く重くてかなわない。
自由には責任がともなうものだとはよくいったものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます