第二六話
ほぼ同じ頃、リネーア
リネーアにとっては実に二ヶ月近くぶりになる執務室だが、まったく余韻に浸る暇さえない。
ひっきりなしに人を呼び出しては指示を下して追い払う、その繰り返しである。
あらかたの指示を出し終え、一服ついた頃にはすっかり日も暮れていた。
「しかし、なんとも素晴らしいものだな、あのあぶみというものは」
椅子に背中をもたれさせつつ、しみじみとリネーアはつぶやく。
リネーアも一応、乗馬の心得はある。
だが、カッポカッポと歩かせるのがせいぜいで、駆けさせることなどとてもできなかった。
当たり前と言えば当たり前だが、馬というのは騎乗する人間とはまったく別個の意思を持った生き物である。
つまり往々にして、予想できない行動を起こす。
例えば身震いしただけでも、乗っている者にとっては突然やられては対処するのは困難だ。
そして姿勢を崩したが最後、転がり落ちることうけあいだ。
なにせ姿勢を立て直すために踏ん張る場所がどこにもないのだから。
それがこのあぶみというものがあるだけで、安定性がまるで変わる。
リネーア程度の技量でも、なんとか馬を駆けさせることが出来た。
おかげでチャリオットでも五日はかかる行程が、わずか三日と短縮できた。
この差は非常に大きい。
リネーアが戻った当初、《角》は宗主と、宗主不在時の全権を預かる若頭の両名を欠き、抗戦派と降伏派とに分かれ、内部分裂間際の状態という有様だった。
後一日遅れていたら、両派の亀裂は決定的となっていたかもしれない。
なんとか間に合ったのはまさにこのあぶみのおかげだった。
なにより、これなら多少の訓練は必要だろうが、馬上でも武器を持って戦うことも十分可能に思える。
今まで考えもしなかったことだ。
あんなしがみついているのが精一杯の不安定なものの上に乗って戦うなど、考慮の必要性すら感じなかったと言っていい。
決してこれは、彼女が無能だったわけでも愚鈍だったわけでもない。
《狼》一の勇者ジークルーネにしても重鎮である若頭ヨルゲンにしても、また《蹄》の英雄王ユングヴィにしても、リネーアよりはるかに馬を乗りこなし軍略にも長けるが、まったく思いつきすらしなかったのだから。
なにせ、あぶみが歴史に登場するのは四世紀、実に二〇〇〇年以上も未来の産物なのである!
当の勇斗としては、裸馬にどうしても乗れず、あぶみがあればまだ乗りやすいのではないかとなんとはなしに思いついただけなのだが、この時代にあっては超ド級のオーバーテクノロジーだったのだ。
「まったくあの長槍といい、ユウトの兄上は軍神の生まれ変わりかもしれんな」
「あながち誇張とも言えませんな。軍議の時は儂も背筋が寒くなりました。ははっ」
《角》若頭ラスムスが、若干引きつった笑みとともに言う。
言葉にしたことで思い出したのか、ぶるっと小さく身震いする。
「正直、誓盃式の時は姫様はこんな仔犬の風下に立たねばならぬのかと内心憤慨していたものでしたが、まさか狼どころか獅子の仔だったとは……儂の目はずいぶんと節穴だったようです」
「ラスムスにそこまで言わしめるとは、な。絶望的だと思っていたこの戦、案外勝てるやもしれないな」
「絶対に勝ちましょう。《蹄》などに我が民を蹂躙させるわけには参りません」
「ああ、そうだな!」
コクンと力強く、リネーアは頷く。
自分の力の至らなさがこの危機を招いたのだという自責感は、まだ心に強くくすぶっている。
自分などが大将をしていては、勝てる戦も勝てないのではないか、という疑念も尽きない。
だが今は、そんなことを考えている暇はない。ただ自分にできることを精一杯やるしかなかった。
「姫様、この戦いに勝利した暁には、一つ提案があります」
「なんだ、改まって。しかもずいぶんと気が早い」
この一戦にはまさに文字通り《角》の命運がかかっている。
今はわずかの雑念もはさまず、ただ勝利のために全身全霊を尽くすべきだ。
ほんのわずかの意識の差が、勝敗を、強いては生死を分けるのが戦場である。
そんなことぐらい、まだ若い自分より、歴戦のラスムスのほうがよっぽど知っているだろうにと訝しくすら思った。
だが、ラスムスの提案の内容を聞いた瞬間、それらの考えはすべてが吹き飛び、そんな状況ではないはずなのに、リネーアは暫くの間、頭が真っ白になってしまった。
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