第二五話

 元々は、アールヴヘイム地方に大きな勢力を誇っていた《犀》の分家筋の出で、アールヴヘイムの最西端――同時にユグドラシルの最西端でもある――という辺境の弱小氏族であった。

 しかし当代の宗主ユングヴィが就任するや、わずか一〇年の間に本家筋であった《犀》を始め周辺氏族を呑み込み、今やユグドラシル全土で大小一〇〇以上はある氏族の中でも十指に数えられるほどの大氏族へと変貌を遂げていた。


 そんな《蹄》中興の祖ともいうべきユングヴィは今年三六歳になる。

 まだまだ若くその身体は活力に溢れ、それでいて経験からしたたかな老獪さも備えている。まさに心身ともに最も充実した時を迎えていた。

 力はさらなる欲望を刺激する。彼はこれほどの領土を勝ち取ってもまるで満足しておらず、その野心はますます膨らむ一方だった。


 タナイス川流域の肥沃な《角》の領土を奪い取れば、《蹄》の勢力は格段に増すことは間違いない。

 また、神帝のいるアースガルズ地方までの道が拓ける。かねてより隙をうかがっていたところに、《角》は《狼》との戦を始め、しかも大敗したという情報が飛び込んできた。

 しかも内通させた間者によれば、宗主は《狼》に囚われの身となり、宗主不在の全権を任せられた若頭もその引き取りに留守にしているという。

 まさに千載一遇の好機であった。


 事実、抵抗らしい抵抗もなく、三つの砦を落とすことができた。

 あまりに呆気なさすぎて拍子抜けしたほどだ。

 すでに後顧の憂いは断った。後は、《角》の族都フロージを攻め落とすのみである。


「ふふふっ、これはもはや天が儂を覇者へと導いているとしか思えんな」


 まさに傲岸不遜としか言いようのない物言いだった。

 しかし上の者の不安は下へと伝播していくし、逆に上の者が自信に満ちているからこそ、下の者も安心してついていくことができるというものだ。

 傲慢もまた人の上に立つ者の一つの素養だった。


「今日はこの辺りに野営するぞ。だが周囲への警戒を常に怠るな」


 一刻も早く攻め取ってやりたいという欲を必死に抑えつけ、ユングヴィは兵たちに休息の準備を指示する。

 驕っていても、ユングヴィは歴戦の将である。

 わずかの油断が戦場では命取りになることは骨身に染みて知っていた。

 功に焦って兵に無理な行軍を強い疲弊させるような愚は犯さない。

 これからも自分の覇道を手助けしてもらう子や孫たちである。いたずらに命を落とさせるわけにはいかなかった。


「むっ?」


 設営したテントの中で、今後の予定を思案していたユングヴィは、ふと後方の部隊が色めき立っていることに気づく。

 何事だといぶかるやいなや、


 ぶおおおおおお! ぶおおおおおおおおっ!!


 耳障りな音が、けたたましくも辺り一帯に鳴り響いた。

 敵襲を告げる角笛の音だ。


「ほう、まさかあちらから来てくれるとはな!」


 ニタリと口の端を吊り上げつつ、ユングヴィは立ち上がる。

 てっきり亀のように拠点に閉じこもって出てこないものとばかり思っていたのだ。


 だが、ユングヴィにとっては望むところである。

 攻城戦はどうしても時間がかかる。

 広い国土を有する《蹄》は《角》以外にもいくつかの国と国境を接している。

《角》にばかり兵を傾け続けるのは好ましくない。

 また宗主たる自分があまり国を留守にし過ぎても、いろいろ滞るものもあろう。

 野戦で一気に方を付けられるなら万々歳である。


「どれ、一息に叩き潰してくれようか」


 だがその余裕も、垂れ布をたくし上げるやすぐに吹き飛んだ。

 ユングヴィの天幕は、全軍が見渡せるよう小高い丘に張られている。

 月と松明が照らし出す眼下には、ありえない光景が広がっていた。


「な、なんだあれはっ!?」


 旗印からすると、どうやら《狼》の連中のようだった。

 兄妹分の盃から助太刀として参戦しているのだろう。

 それはいい。

 狙い通りですらある。

 敵の数は思っていたよりはるかに少なかった。

 せいぜい一〇〇かそこらと言ったところか。

 一万の兵を要する《蹄》にとってはまったく取るに足らない数だ。


 だが、そのたかが百騎に《蹄》の軍勢は手も足も出ず、為すがまま好き放題に暴れられ、悲鳴と断末魔が飛び交う大混乱に陥っていた。


「騎馬のみの部隊だとっ!? 馬鹿な! なぜ戦える!?」


 馬に乗るには長い長い訓練が必要だ。

 それこそ五年一〇年はかかる。

 どの氏族においても馬に乗れる人間というのは希少で貴重な存在だった。


 とは言え大氏族の《蹄》だ。

 馬に乗れる人間はそれなりの人数はいる。

 かくいうユングヴィも、馬の扱いにかけては《蹄》きっての巧者だ。


 その彼をしてさえ、馬に直接乗って戦う気にはなれなかった。

 あんな不安定で踏ん張りのきかないところでは、少し敵と打ち合っただけで落馬すること請け合いである。


 そのはずなのに――

 夜襲を仕掛けてきた部隊は、ある者は背中の筒から次々と矢を取り出しては射放ち、またある者は疾走の勢いを乗せた剛槍を思いっきり振り回し、皆、バランスを崩すこともなく縦横無尽に暴れまわっている。

 天賦の才と長年の修練を持ってして初めて可能な芸当を、一〇〇名からの人間がこなしている。


 中には少女と言っていい年齢の娘までいる。

 悪い夢でも見ているかのようだった。

 思わず、自らの太ももをつねってみるも、痛みをしっかりと感じる。まごうことなき現実だった。


「っと、いかんっ!」


 パァン! と自らの両頬を思いっきりはたき、意識を切り替える。

 ここは戦場であり、今まさに敵が攻めてきたところだった。

 将たる自分が呆けていていいはずがない。


「皆の者、落ち着けい! 面妖なれども敵は少数だ。落ち着いてかかれば倒せる! 伝令兵! 前線に指示を伝えろ! 急げ!」


 ユングヴィの喉が枯れんばかりの叫びに、彼の側近たちもハッと我に返る。

 慌てて何名かが前線へと駆け出していく。


 やはりユングヴィは一代にして《蹄》を大国までのしあげた傑物だった。

 凡将では未知の事態に右往左往し、被害を拡大させ続けたに違いない。


 即座に思考を立て直し、臨機応変に状況に対処する。

 言葉で言うのは簡単だが、実際に、刻一刻とめまぐるしく状況が変化し、一つの判断ミスが勝敗を分ける戦場において、冷静にそれを行うのは至難を極める。

 そしてなにより、前線の混乱がまたたく間に収まっていったのは、彼の積み上げてきた実績への信頼感と、軍規を乱す者には容赦なく死を与える苛烈さのなせる業だった。


 しかし、敵方の将もさるものだった。《蹄》が体勢を立て直したと見るや、即座に退却を始めたのだ。

 それはもう一糸乱れることのない、鮮やかとしかいいようのない退却ぶりである。

 ようやくいざ反撃と意気込んでいた《蹄》の兵たちは肩透かしもいいところだった。


「逃がすなぁっ!」

「やってしまえっ!」

「馬から引きずり下ろせぇっ!」


 当然、怒号とともに《蹄》の兵達は逃げる敵を追いかけるのだが、相手は騎馬である。

 距離を詰めるどころかどんどん引き離され、やがて夜の闇の中に見失ってしまう。


 さんざん好き放題に暴れ回られながら、一兵すら打ち倒すこともできず、まんまと逃げられてしまったのだ。

 これほどの屈辱はなかった。

 だがそれは《蹄》にとって、まだ悪夢のほんの始まりでしかなかったのである。

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