第二四話

 普段の温厚でどこか柔弱な少年の姿は、そこにはなかった。


 よほど強く壁を殴ったのだろう、その右拳からはポタポタと血が滴り落ちている。

 だが、それに斟酌した様子は微塵もなく、憤怒に満ちた鋭い眼光がその場にいる全員を射抜いていた。

 今、勇斗の脳裏によぎるのは、病院からの母危篤の報を伝えた時の父の言葉だった。


『しばらく鍛錬で手が離せない。後で行く』


 普段から家族より仕事を優先しがちな父ではあったが、こんな時ですら父は自分の満足を優先し、結果、母の最期を看取ることはできなかった。

 母はずっと、残していく父と自分のことを心配していたというのに、だ。

 自分は絶対に家族を見捨てたりはしない。するものか。

 あんな最低の男にはならない。その想いが勇斗を突き動かしていた。


「おい、盃の誓いは絶対じゃなかったのか!? 血を分けた家族より家族と思うんじゃなかったのか!?」


 兄妹の盃は、勇斗がリネーアに強制的に呑ませたものである。

 いわばそう、誰に押し付けられたのでもなく、彼女を妹にすると自分で自分に誓ったことだ。

 ならばたとえ義理でも、勇斗にとってリネーアは何がなんでも守らねばならない妹だった。


 勇斗の言葉に、長老や幹部たちが揃ってうつむいている。

 彼らにも言い分はあっただろう。

 勇斗の言っていることは、今この状況にあっては建前にすぎる。


 だが、彼らは口を開くことさえ出来なかった。

 ここに集った者達は、幹部や長老の位を与えられるだけあって、《狼》でも歴戦の猛者たちばかりだ。

 いくつもの修羅場を乗り越えて、この席に座っているはずだ。


 その彼らが、たかだか一六の少年の気迫に呑まれていた。


「ふ……ふふふ……」


 止まらぬ身体の震えをその両の腕で抱きさすりながら、フェリシアはそれでも笑みをこぼさずにはいられなかった。


 実際の殴り合いならば、勇斗はこの場の誰よりも弱い。

 そんなことは誰もが知っていることだ。


 だというのに、みな彼に気圧されていた。

《狼》最強の戦士であるジークルーネですら、だ。


 だが今、フェリシアを震わせるのは、この背筋も凍るような恐怖ではなく、それをはるかに上回る歓喜だった。

 これだ。

 これこそが自分が至上の主と惚れ込み尽くしてきた男のもう一つの顔なのだ。


 確かに勇斗の持っている知識は、《狼》にとってなくてはならぬものだ。

 だが、たかがそれだけの男に、自分をはじめジークルーネやヨルゲンといった《狼》でも指折りの勇者たちがこれほど心酔したりするものか!


 人間は土壇場でこそ、その本性をさらけ出す。

 普段綺麗事を言ってる輩ほど、いざという時には逃げ出したりするものだ。

 長老頭ブルーノなどまさにその典型であろう。


 無論、その逆も然りだ。

 普段どこか頼りない少年は今、その獅子の本性を剥き出しにしていた。


 周防勇斗というのは、彼の国の言葉で「周りを護って勇ましく戦う」という意味だと聞いたことがある。

 まさにそのとおりだ。

 彼はいつも、誰かを護る時にこそ本領を発揮する。

 それが他国の女のために、というのは少々癪ではあったが。


「《角》は助ける。これは決定事項だ」


 短く言い捨てた勇斗の言葉に、異論は上がらなかった。

 ブルーノも青ざめた顔でただただコクコクと頷いている。


 朗報にも気づかず視界の端で勇斗の豹変にカチカチと歯を鳴らすリネーアの姿を捉えつつ、フェリシアは苦笑する。

 彼女との会見の時には、犬だか狼だかを自分たちはえらく気にしていたものだが、まったく些細なことだといまさらながらに思う。


 まだこの世界に来たばかりの勇斗は、猫と見間違わんばかりの乳飲み仔だった。

 だが、幾多の修羅場を乗り越え、この二年の間に、彼は逞しい若獅子へと成長を遂げていた。


 眠りこけてくれているならば、その側で多少のおいたを振る舞うことはできよう。 

 しかし、ひとたび目を覚まし怒り猛る獅子には犬だろうが狼だろうが立ち向かえるわけがないのだ。


 勇斗はドカッと玉座に腰掛け、頬杖をつき憤然と続ける。


「だいたい静観など下の下の策だ。中立は両方から信を失うだけだぞ」


 情勢がはっきりするまで両方に良い顔をする、勝ち馬に乗るというのは一見、良策のように思える。

 しかし、実際はそうでもない。

 情勢がはっきりしてからの立場表明は、往々にして実入りなどほとんどないどころか、勝者の格好の餌食にされるだけなのだ。


 君主論においても「中立は滅びる。勇敢に旗幟を鮮明にすべし」とある。

 全くそのとおりだと勇斗は思う。


 情勢がはっきりしてから擦り寄ってくる人間より、苦しい時にこそ手助けしてくれた人間に信を置くのが人情というものだし、また敵でも優れた人間には一目を置き、粗末に扱おうとはしないものである。

 事実、関ヶ原の合戦などにおいて、佐竹氏や秋田氏などは、中立を取りながら所領を減らされ、一方で「島津の退き口」で知られる勇猛な戦いぶりを示した島津氏は敵対しながら所領を安堵されている。

 はるか遠く国を隔てながらも、マキャベリの言ったとおりになったというわけだ。


「だいたい、神帝の遣いの前であそこまでおおっぴらに《狼》と《角》は盃は交わしたんだ。いまさらあの盃は無効でしたなんて通じやしない。その日の内に盃の誓いを反故にしてみろ。《狼》の盃の価値は地に落ちるぞ。そうなれば、《爪》に裏切りの口実を与えることになる」

「「「あっ!」」」


 諸将たちの顔に理解の色が走る。

《蹄》という大きな存在に目を奪われて、その可能性にまったく思考が及んでいなかったのだろう。


 兄貴分たるものは、下の者を庇護せねばならない。

 あっさり妹分を見捨てた《狼》を、兄貴分として敬うに値しない――という理由は盃を水にし、他氏族につくには申し分はなかった。


「《蹄》は俺たちと縁戚関係を結んだ氏族じゃあない。つまり、《角》が攻め滅ぼされれば必然的に、俺たち《狼》は《角》よりはるかに強大な氏族と隣接することになる。当然、《蹄》は俺たちが盃の誓いを破ったことを吹聴するだろう。兵の士気はガタガタ、そうなれば《爪》も《蹄》につくだろう。挟み撃ちだ。うちに勝ち目はない」


 勇斗は苦々しげに吐き捨てる。

 まったく《狼》にとっては最悪のシナリオである。

 案外、ヨルゲンが言ったように、本当に狙いすましたのかもしれない。


 もしそうだとするならば、絵を描いた《蹄》の誰かは、大した智謀だと勇斗も舌を巻かざるをえない。

 だが、そうそう相手の思うつぼにはまってやるわけにはいかなかった。


「《角》だって族都守護のために二〇〇〇かそこらの兵力は残してあるだろう。《爪》にしても、領土を接してもいない《角》の話だ。裏切りを心配する必要はない。後で背後に裏切りの不安を抱えて五倍の兵力と相手するぐらいなら、今二倍強の敵とやっといたほうがはるかに得だろ」

「む、むうう」

「そ、それは確かに……」


 諸将たちが勇斗の弁に脂汗を滲ませつつ唸る。

《爪》と《角》を立て続けに討ち破った救国の英雄が指揮を執るのだ。

 五倍はさすがに難しくても、二倍ならまだなんとか勝ち目があるような気がしてくる。

 気乗りはしないが、出撃も致し方なし、といったところに心が傾いたのだろう。


「よし、みんな、腹は定まったな? ルーネ!」

「……はっ!」


 勇斗の呼び出しに、銀髪の少女が諸将の列より一歩前に進み出る。わずかに反応が遅れたのは、主の勇姿に見蕩れていたからである。

 武者震いかと頼もしく思いつつ、勇斗は命令を告げる。


「ムスッペルを率いて先に行け。パターンB『モンゴル』だ。くれぐれも無茶をするなよ。敵を倒すことよりまず兵の数を減らさないよう心がけろ」

「畏まりました!」


 一礼するや、ジークルーネは謁見の間を飛び出していく。

 今が一刻を争う事態だということを言わずともわかっているようだった。


『最も強き銀狼(マーナガルム)』の彼女なら、今のような指示にも、その場その場の状況に応じた適切な判断ができるに違いない。

 普段はその忠誠ぶりに少々戸惑いがちな勇斗であるが、今は彼女の存在がなんとも頼もしかった。


「ヨルゲン!」

「はっ!」


 続いて、呼びつけられたのは若頭である。緊急の事態だというのに、ヨルゲンの口元にも隠し切れない笑みが浮かんでいた。

 普段の勇斗はどこか頼りなさげな印象だというのに、いざという時は、この場にいる歴戦の将たちの誰よりも、腹をくくるのが早い。


 若さ故の無謀ならヨルゲンも一笑に付すところだが、決してそうではない。

 この一年でヨルゲンは勇斗の人となりをそれなりに把握している。


 勇斗は決して宗主の責務に対して鈍感ではない。

 むしろ人一倍それを意識している。

 先程の状況判断も極めて的確だった。


 そしてなにより、見る者を圧倒するあの類まれなる覇気。

 これでまだ二〇にも満たぬという。

 この先まだまだ伸びるに違いない。

 明らかに宗主という立場を嫌がっているというのに、これほど適正のある人間も珍しいとつくづく思う。

 実に仕え甲斐のある主であった。


「本隊の編成を急げ。夜明けまでには準備を全て整えろ!」

「畏まりました!」


 傲然とした命令口調に、ヨルゲンは深々と一礼して応える。

 いつもの勇斗なら、二回りも年上の彼に対して、どこか遠慮したような言葉を使うのだが、今は危急の時だ。

 取り繕う余裕などないのだろう。

 だが、主に威厳を求めるヨルゲンとしては、これこそまさに望む姿である。


「リネーア!」

「は、はいぃっ!」


 突然の呼び出しに、リネーアはその場に直立不動する。

 リネーアはれっきとした《角》の宗主であり、勇斗の臣下というわけではない。

 それでも今の勇斗には、従わずにはいられない凄みがあった。


「早々に《角》に戻って兵をかき集めろ」

「わ、わかりました!」

「イングリット!」

「えっ、うぇぇっ!? あ、あたしぃっ!?」


 イングリットが素っ頓狂な声をあげる。

 その功績から序列八位という高位な地位を与えられてこそいても、戦いのことなどまるで彼女にはわからない。

 まさか呼ばれるとは思ってもいなかったのだ。


「例のアレ、予備ぐらいあるだろ。今は一刻を争う。リネーアに貸してやってくれ」

「いいいっ!? ちょっ、いいのかよ、他国の人間だぞ、こいつ」

「だが、俺の妹分だ」


 ニヤッと勇斗が口の端を釣り上げる。

 血よりも濃い盃を交わした、れっきとした家族だ。

《爪》のボドヴィッドなどとも違い、人間的にも信頼できる。

 しかも事態は切迫しているのだ。まさに四の五の言ってる暇すら惜しい。

 ガシガシガシガシっと苛立ったようにイングリットは頭をかきむしり嘆く。


「あーもう! 普段は気弱なくせして、なんでいざとなるととことん大胆になるんだよこいつはぁっ! ……ま、まあ、そういうところが頼もしいんだけど、さ」

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