第一七話

「本日もお疲れ様でした」

「おう、フェリシアもお疲れさん」

「それではまた明日の朝、お迎えに上がります。おやすみまさいませ、お兄様」


 優雅に一礼して、フェリシアは部屋を後にする。

 木製の扉が閉められると同時に、勇斗は数歩後ろへと下がり、バタンッとベッドに仰向けに倒れこんだ。


「ふぃー、つっかれたぁ」


 横になった途端、ドッと疲労の波が身体に押し寄せてきて、勇斗は肺の中の空気全てを吐きださんばかりに長い溜息をつく。


 部屋の中は薄暗く、ベッドそばでぼうっと小さく灯るオレンジの明かりだけが部屋を照らしていた。

 この世界にはまだロウソクというものがなく、木綿の紐を芯にして土器で作ったランプである。

 これでは部屋に何があるのか判別するのでせいぜいだ。


「こんなに真夜中に仕事してる日本人のほうが多分おかしいんだろうなぁ」


 言いつつ、勇斗は窓の近くで充電しておいたソーラーバッテリーを手に取り、自分のスマートフォンに接続する。

 ユグドラシルの人間は、朝日が昇る少し前に起き、陽が暮れるや食事を取って早々に寝るのが普通だ。

 それはまさしく、人間本来の自然の営みと言ってもいいだろう。歴史的に見ても、一九世紀、電灯が発明されるまでは皆、そういう生活を送っていたのだ。


 だが、公務は終わっても、勇斗の仕事はまだ終わらない。

 むしろここからが他の誰にも真似できない現代人たる勇斗の本領発揮だった。


「そろそろ、かな」


 時間を見計って、勇斗はスマートフォンの電源を入れると、しばらくして画面にメーカーロゴが映し出される。

 ネットなどを徘徊し、時には電子書籍を購入し、この世界で使えそうな知識を収集するのが夜が更けてからの勇斗の日課となっていた。

 二一世紀の知識をこの世界に持ち込むことに、勇斗も躊躇いがないわけではない。

 大それたことをしでかしているのではないか、こんなことが許されるのだろうか、そういう不安に常にさいなまれている。


 だが、知識を使わなければ今頃、勇斗はおろか、《狼》もこの地上から姿を消していただろう。

 それに勇斗の頭には、この世界に来たばかりに見た、お腹を空かせて泣いている子どもたちの姿が、骸となり物言わなくなった恩人の姿が今も鮮明にこびりついている。

 義を見てせざるは勇なきなり。

 救える知識や力があるのに何もしないほうが、よほど罪深い。

 そう勇斗は開き直っていた。


 かつて、友人のからかいに耐え切れず、美月に冷たくしていた小学生の自分を思い出す。

 今はもう赤面モノの黒歴史である。

 あんな一生後悔するような格好悪い真似は、二度としたくなかった。


 なにより、あの男のような人間に堕ちたくなかった。


「とりあえず、戦の前に読もうとしていたヤツを読むか」


 ホーム画面が表示されると同時に、勇斗はその中から電子書籍ビューアー「Hindle」のアイコンをタップし、ずらっと並ぶ表紙の中から「貨幣経済の歴史」と題されたものを開く。

 ユグドラシルでは、物々交換が商取引の主流である。

 だがこれは、交換する品物が同価値なら良いが、どちらかに偏っていればまず取引は成立しない。

 また交換したいものがお互いぴったりと合う人間を見つけるのも難しい。

 あまりに効率が悪いとしか言いようがなかった。


 一応、金や銀が代替え物として使われているが、それも天秤で量りながらでなんとも面倒くさい。分銅に細工する詐欺も後を絶たない。

 そこで勇斗は、交換に使う共通の代替え物――紙幣を作ろうと考えたのだ。

 紙も作ったことだし、これで取引がスムーズに行われるようになれば商業活動も活発になり、ひいては《狼》の国力の増強にもつながるはずだ、と。

 しかし、そうは問屋が下ろさなかった。


「ん~、こりゃ使えそうにねえな」


 読み進める内、勇斗は自分の浅はかさを思い知る。

 紙幣は紙に額を書いて流通させればいいというほど単純なものではない。


 まず同じものを作れる印刷技術がいる。

 さらに同価値の貴金属を用意するか、政府に相応の信用がなければ、そもそも機能しない代物だった。

 そもそもこの本によれば、紙幣が勇斗の世界の歴史に登場したのは、実に一一世紀、中国は宋の時代だと言う。

 しかしそれも、紙幣の濫発により価値を激しく落とし、いわゆるインフレーションを起こして物価を崩壊させて終わりを告げたと本は告げていた。


「社会がもっともっと成熟してないと、こりゃむしろ混乱を招くだけ、だな。いいアイディアだと思ったんだけどなぁ」


 勇斗は画面から顔を上げ、途方に暮れたように天井を見上げる。

 これだ! とアイディアを閃いても、今回のように調べてみると使えないというのはよくあることだった。


「元手をかけないでやろうってのが、ちと虫が良すぎたか。まあ、でも、鋳造貨幣ならいけそうかな? ……おっと、続きはまた今度だな」


 画面左上に表示された電池マークの残量が赤色に変わるのを見て、勇斗はボタンを押してホーム画面へと戻る。


 スマートフォンで最も電気を食うのが液晶表示だ。

 五インチ型とけっこう大きめの勇斗のスマートフォンならなおさらである。

 ソーラーバッテリーが供給する五〇〇mAh程度では、読書は三〇~四〇分がせいぜいだった。


「あー、目がしょぼしょぼする」


 眉間を親指と人差指で揉みながら、独りごちる。


 暗い場所で読書をするのは目に悪い、とよく言われるが、実は最近の眼科学においては、暗い照明の下で読書をしてもさほど目を傷めないという意見が大半である。

 一時的に眼精疲労を引き起こすことはあるが、目の機能に永久的な変化を与えるようなことはないという説が有力だった。

 特に勇斗はこの世界に来てからというもの、地平線など遠くのものに目を向けることが多くなった。

 その辺りにも視力が落ちていない理由はあるのだろう。


「さて、寝る前にあいつの声でも聞いておくとするか」


 データ通信をオンにし――データ通信をオンにしているだけでバッテリーを消耗するのでオフをデフォルトにしている――幼馴染へと電話をかける。

 勇斗の寝室は北東の隅である。もともとの宗主の寝室は宮殿の中央あたりだったのだが、無理を言ってこちらに移してもらった。

 聖塔に程近いこの部屋なら、月が半分以上満ちていればつながるから。


「もしもしっ!」


 ワンコールもかからず、スピーカーから弾んだ声が響いてきた。

 相手も電話を心待ちにしてくれていたのだと、自然、勇斗の口元がほころぶ。


「もしもし。こんばんは。美月。俺だよ俺」

「うん、こんばんは、勇くん。お仕事お疲れ様でした」

「ああ、すげえ疲れたよ」


 電池はもうほとんど残っていない。

 中身のある会話なんて、まずできない。

 たった数分の短い逢瀬。

 こんなことに貴重な電気を使うぐらいなら、少しでも電子書籍に目を通しておいたほうが、効率的ではあるのだろう。

 だがこの時間こそ、勇斗にとって何よりの癒しであった。


「おやすみ、美月」


 こうして、勇斗の宗主としての一日はつつがなく更けていった。



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