第一一話

「朝です、父上」

「起きてくださいませ、お兄様」


 凛とした鈴の鳴るような声と絹のように柔らかい声に、勇斗はまどろみから覚める。

 ついで、ガタッと誰かが何かを動かす音が聞こえた。


 途端、陽光が目蓋の上から差し込んできた。

 窓の立板を外していたようだ。

 この世界にはまだガラスがないので、窓は木の板で塞いでいるのである。


「ああ、ふたりともおはよ」


 勇斗が目を見開くと、その金と銀の髪を陽光に煌めかせた天使たちが、視界に飛び込んでくる。

 ここは勇敢な者だけが行けるという天国(ヴァルハラ)かと錯覚さえしそうになると同時に、わずかな失望が勇斗の心をかすめる。

 目が覚めたらそこは現代日本の勇斗の部屋で、なんてことはやはりないのだ、と。


「おはようございます、父上」


 銀色のほう――ジークルーネがさっとその場に片膝をつき挨拶すれば、


「おはようございます、お兄様。朝食をお持ちいたしましたわ」


 金色のほう――フェリシアがベッド横のテーブルにパンとスープ、そしてミルクの載った盆を置きつつ、にっこりと微笑む。


 焼きたてパンの美味しそうな芳香が、勇斗の鼻腔をくすぐってきた。

 その匂いに誘われてというわけではないが、寝ぼけた頭がようやく覚醒してくる。


「ふああ、久しぶりに熟睡できたよ」


 ベッドから身体を起こしつつ、勇斗は大きく伸びをした。

 当然ながら、この世界には低反発マットレスなんて上等なものはない。

 ベッドは固く寝心地がいいとはお世辞にも言えないが、それでも自分の部屋というものは、精神的にくつろげるものだ。

 一晩でかなり疲れが取れ、身体は軽くなっていた。


「それはようございました」

「ああ、もう元気いっぱいだよ」

「それは……確かみたいですね」


 なぜかその視線は勇斗の顔のほうではなく、ある一点を向いていた。

 勇斗は思春期真っ盛りの男であり、そして今は朝だった。


「ふふふ、わたくしでよければ今からお鎮めいたしましょうか?」


 フェリシアは妖艶に微笑みつつ、そっと勇斗のベッドに手を付き、もう片方の手で髪をかきあげながら顔を寄せてくる。

 勇斗は慌ててぶるぶると激しく頭を左右に振った。


「い、いや、そういうのは結構っていつも言ってるだろ!」

「あら、でもここはそうは仰ってはいないようですが」

「ただの生理現象だし!」


 今は違うような気がしないでもなかったが。

 もちろんそんなことは口に出すわけにはいかない。


 フェリシアはペロリと艶かしく舌なめずりし、


「ふふっ、今日の午前のお勉強はそういうことに……」

「おふざけも大概にしないと不敬罪でたたっ斬るぞ、フェリシア。父上がお困りであろう」


 それまで黙っていたジークルーネが、腰の刀に手をかけつつ剣呑な気配を放つ。

 フェリシアの誘惑攻勢にたじたじだった勇斗は、その頼もしさに心の中で喝采を送ったものだったが、


「あのね、ルーネ。お兄様の健康管理も副官であるわたくしの職務なの。男の人というものは出すものを出さないと健康に悪いそうなのです」

「なに、そういうものなのか?」

「ええ、それだけでなく古来より女に狂った王が国を傾けると言います。悪女の手練手管に惑わされぬよう、宗主たるお兄様には誰かが前もって女というものを手ほどきして差し上げねば危険でしょう?」

「ふむ、なるほど。確かに一理あるな。父上、貧相ながらわたしの身体も宜しければ使ってくださいませ」


 あっさり丸め込まれて寝返ったジークルーネに、勇斗は思わず天井を仰いだ。

 ジークルーネに見えないように、フェリシアがにんまりと笑みを浮かべているのがチラリと見えた。

 どう考えても、悪女はフェリシアのほうだった。


 ぐ~! 


 唐突に、勇斗の腹の虫が節操なく鳴り出した。

 昨日はとにかく眠たくて夕飯を取っていなかったのだから当然といえば当然だ。

 しかしこれぞ勇斗にとっては反撃の絶好の好機であった。


「い、今は色気より食い気! 飯だ飯!」

「ふむ、確かに腹が減っては何もできませぬな」


 またあっさりとフェリシア側から勇斗へと寝返るジークルーネ。

 もっとも彼女自身にはそんなつもりは毛頭なかったのだろうが。


 戦争において最も重要となるのが兵站、すなわち食料の確保だ。

『最も強き銀狼』であるジークルーネがそれを知らぬはずもない。

 彼女の中では腹を満たすことは何より優先される事項なのだ。


「あ~らら、ざ~んねん。……女を抱くことを覚えれば、その間ぐらいはいろいろなことをお忘れになれますのに……」


 後半の小さなつぶやきは、勇斗の耳には届かない。


「た、助かった……」


 ほっと安堵の吐息を漏らしつつ、勇斗は朝食へと目を向ける。


 パンやスープは銀製の皿に盛られていた。

 市井の庶民たちが土をこねて作った土器を使っている中、少々申し訳ない気もするが、族長があまり質素すぎる生活をしていても体面が悪い。

 なにより土器では、なんとなくまた腹痛に悩まされそうな忌避感があった。


「父上、失礼いたします」


 ジークリーネは机に置かれたパンとスープに鼻を近づけくんくんと鼻を鳴らす。

 そして一つ頷いてから、パンを一口かじり、スープをすする。


 お腹を減らしている勇斗への嫌がらせ……なんてことはもちろんなく、いわゆる毒見だった。

 本来、氏族一の勇者に任せる仕事ではないのだが、なんでもジークルーネは毒物に関して異様なまでに鼻が働くのだという。


 実際、これまでも毒入り料理を二度も見抜いている。

 これを食べたらヤバい、と本能がけたたましく警報を鳴らすのだそうだ。


「大丈夫です。どうぞ」

「ああ、いつもありがとうよ」


 礼を言いつつも、内心うんざりもする。

 毎日毎日、常に毒殺の警戒をしなければならない。

 つくづく宗主というのものは因果な立場だった。


「じゃあ、いただきます」


 安全が確認された料理に勇斗はぱんっと手を合わせ、まずはパンを手に取る。

 ユグドラシルにこのような風習はないが、身体に染み付いた癖はそうなくなるものではない。


 パンは、どこかメロンパンをほうふつとさせる形をしていた。

 焼きたてだけあってまだかなり熱を持っているそれを、あ~んと大口を開けて口へと運ぶ。

 ジークルーネとの間接キスになるが、これも一年も経てば、いい加減慣れてしまっていた。

 いちいち気にしていたら食事もままならなくなる。


「うん、美味い! 俺が来たばっかりの時のと比べると、ほんと雲泥の差だな。チートした甲斐があったぜ」


 焼きたてならではの香ばしさと、ふんわりとした生地の食感を楽しみながら、勇斗はしみじみと呟く。


 パンを作るには、まず小麦を製粉して小麦粉にしなくてはならない。

 勇斗がこの世界に来た当時、その製粉方法は、平べったい石の上にものを置いて、細長く丸っこい石でひたすらゴリゴリゴリゴリ磨り潰すという、実に原始的なものだった。

 しかしこのやり方は、小麦の殻や石がどうしてもけっこう混じってしまう。当然ながら、こんな小麦粉で作ったパンはときどきガリッ! とかゴリッ! とかいって不快なことこの上なかったのだ。


「それもお兄様のおかげですわ。ほんとに最近のパンは美味しいです」


 フェリシアも嬉しそうに微笑む。

 ジークルーネも深々と頷いていた。

 誰だって、毎日口に入れるものは出来る限り美味しいほうがいいに決まっている。


 勇斗も、同様だった。

 現代のパンに慣れきっていて砂利入りパンを食うに耐えなかった彼は、ネットを使って臼について調べあげ、それ系の電子書籍も読み漁った。

 そしてついに、円盤状の石を二つ重ねて、ぐるぐるぐるぐると木を挿した上の石を横に回転させる、いわゆるロータリーカーンと呼ばれる新型の臼を作り上げてしまったのだ。


 ちなみに、ロータリーカーンが歴史に初めて登場したのは紀元前六世紀頃、ユグドラシルの文明レベルから考えると、これも時代の数百年先を行くオーバーテクノロジーである。


「ああ、そういえば、パンで思い出したよ。水車はどうなっている?」


 思い出したように勇斗は問う。

 自分だけがこんな美味いパンを食べるというのも気が引けた。

 とは言え所詮、人力では限界があった。


 そこで勇斗はこれまた電子書籍を見つけ自らも試行錯誤して、水力の製粉小屋を作ったのだ。

 思いの外これが便利で、現在、すでに五台稼働させている。

 ただなにぶん、ずぶの素人の試行錯誤品だ。

 作ってからもう一年以上も経つ。なにかしらトラブルが起きていてもおかしくなかった。


「今のところ問題なく稼働しておりますわ」

「そうか。そりゃなによりだ」


 頷き、勇斗は牛乳を一気に飲み干す。

 これも搾りたてならではの実に濃厚な味わいで、日本の市販の牛乳などとは比べ物にならない美味しさだ。

 この辺りは現代日本人よりはるかに贅沢といえよう。


 それでも、勇斗はどうしようもなく物足りなさを感じてしまう。

 異世界で二年暮らそうと、やはり勇斗は日本人だった。

 気候や土壌の関係で、難しいことはわかっていた。

 だが、それでも――


「米が、食いてえなぁ」


 ここに来てからというもの、勇斗は真っ白なご飯が恋しくて恋しくて仕方なかったのだ。

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