第十話
宮殿に着いても、鳴り止まない歓声が響いてきていた。
《狼》を治める宗主の宮殿は、街のちょうど中央、街を覆っていたものよりさらに高い周壁の内側にある。
柱状の張り出しが隙間なく連なった外壁は漆喰により綺麗に白く塗装され、どこかギリシアのパルテノン神殿をほうふつとさせた。
街中に広がっていた、勇斗の感覚的には田舎の納屋のようなみすぼらしい民家とはまさに雲泥の差である。
勇斗のいた時代からは三~四〇〇〇年ほども昔の文化水準のはずなのだが、それでもこれほど巨大で荘厳さをたたえた建造物を作れるのかと、ただただ感嘆するしかない。
「おかえりなさいませ、ユウト殿」
「おめでとございます、大勝だったそうですね」
「ユウト殿がいれば、我が《狼》は安泰ですな」
城門そばに勇斗がチャリオットを停めると、氏族の長老の面々がお世辞とともに出迎えてくる。
長老といっても皆、その年は四〇代五〇代といったところで、身体に張りもあり、足腰もしっかりしている。まだまだ働き盛りに見えた。
彼らは勇斗の先代(おや)の弟分たち――つまり、勇斗からすると叔父に当たる人たちだった。つまり勇斗を宗主(おや)と認めず子分や弟分になることを拒否した人たちでもある。
「我ら一同、アングルボダへと一日も欠かさず戦勝を祈願しておりました」
「うむ。我ら《狼》の今日の隆盛も、アングルボダの加護があってのことだということを忘れてはなりません」
「まったくまったく。イアールンヴィズが主、アングルボダ万歳!」
彼らが口々に讃えるアングルボダとは、このイアールンヴィズで祀られている守護神にして、《狼》の氏族神として崇められている女神である。
とどのつまり、遠回しに今回の勝利は自分たちが祈ったおかげもあるのだと言いたいのだろう。
二一世紀の人間である勇斗には少々図々しい物言いにしか聞こえないが、彼らは至って本気である。
中世で魔女狩りが横行したように、人は近代まで自然の脅威に対抗する術を知らず、人々の心と生活には強く深く神秘が息づいているのだ。
「すいません、今、急いでいますんでお話はまた後で」
勇斗はにべもなく長老たちの言葉を受け流し、その横を素通りする。
別に、勇斗としても神秘を頭から否定する気はない。
実際にこの世界では、エインヘリアルや呪歌といった、神秘的な力が確かに存在している。
なにより今ここに勇斗がいること自体、二一世紀の科学でも説明は付けられないのだから。
また、ユグドラシルにおいて、神への信仰が民衆を治めるための非常に重要な要素であることも強く感じている。
だから決して軽視するつもりはない。
ただ、神よりももっと重要で優先しなければならないことが、今の勇斗にはあったのだ。
「な、なななっ! 仮にも叔父に対してその態度は無礼すぎませぬか、ユウト殿!」
結果的に無視された格好となった長老頭ブルーノが、羞恥と怒りに顔を真っ赤に染めて抗議してくる。
人間というものは年を経るごとに頭が固くなっていくものだが、ブルーノは特にその傾向が強いらしく、今回のようにことあるごとに目上に対する礼儀を口やかましく説教してくるのだ。
氏族の運営は「子」を中心に行われるのが世の習いである。
ゆえに彼らは長老という地位を与えられてこそいても実権はほとんどないのだが、それでも叔父は叔父、名目上は敬わなければならない存在ではあった。
「本当に急いでるんだ! 話は明日にしてください!」
苛立ちとともに勇斗は声を荒げる。
普段の勇斗であれば、表面上だけでも繕って愛想よく接することもできていたのだが、今の彼にはそんな余裕はなかった。
とにかく、気が逸って仕方がなかった。
もう彼女の声を一ヶ月も声を聞いていない。
すぐ近くなのだ。
一秒だってもう我慢できなかった。
「いいや、ユウト殿! 盃の関係というものはですな、いかなる事情より優先せねばならぬものでございます! 宗主たる貴方が……」
「そのお話はわたくしがお聞きいたしますわ。後でお兄様にはわたくしのほうからお伝えしておきますので」
なおも食い下がってくるブルーノだったが、フェリシアがにこやかな笑顔で割り入ってくれる。ついで勇斗に対してウインクを送ってくる。
「サンキュな、フェリシア、任せた!」
「任されました。でも、あんまり急いで怪我だけはしないでくださいね?」
「気をつける!」
なんて言いながら、勇斗はいてもたってもいられず駆け出す。
ブルーノのわめき声が耳に届く。
後で色々面倒にはなるのだろうと思う。だが知ったことか!
ナツメヤシの林立する庭を一気に駆け抜けつつ、スマートフォンの電源を入れる。
電波強度を表すゲージには赤く「×」の文字が表示されている。
「ちっ、まだここじゃダメだよな」
貴重な電気を無駄にしてしまい、勇護は思わず舌打ちする。
グッとスマートフォンを握りしめつつ、勇斗はさらに足を早めた。
宮殿の隣には、その宮殿すらさらに霞むような巨大な
全体が赤みがかって見えるのは、何も西の空を暁に染める夕日のせいばかりではない。
この建造物が焼成煉瓦で築かれたものだからである。
一言で言うならば、それは角ばった鏡餅のような形をしていた。
正面部から天頂部までを、長い長い階段で繋がっている。
これでは攻められたらひとたまりもないが、この建造物は防衛用ではなく、むしろ信仰や儀式のためという色合いが強い。
勇護が調べたところ、古代メソポタミアの聖塔(ジッグラト)とそれは酷似していた。
旧約聖書に記されている『バベルの塔』の伝説のモデルとなった建造物である。
似たようなものはヨーロッパや中南米の古代文明にも見られ、少しでも天――すなわち神に祈りたいというのは人類普遍の考え方だったのだろう。
「はあ……はあ……」
心臓と脇腹に痛みを覚えつつも階段を一気に駆け上がり、天頂部に築かれた神殿(ホルグル)へと足を踏み入れる。
戦勝祈願や誓盃式など、神聖な儀式はいつもここで執り行われることになっている。
そして二年前、勇護が迷い込んだ場所だった。
いつの間にか陽はすでに落ち、東の空からは月が昇リ始めていた。
人の姿はなくどこか厳かな雰囲気に満ちた中、奥の祭壇に鎮座するご神体の鏡が月明かりを浴びて妖しい光を放っている。
一見ただの銅鏡にしか見えないが、《妖精の銅(アールヴキプファー)》という不可思議な力を秘めた希少な金属で作られているらしい。
呪歌やエインヘリアルの力も、この《妖精の銅》の力を借りているのだという。
勇斗をこの世界へと誘ったのも、この《妖精の銅》の力が関与しているのはほぼ間違いない。
勇斗としてはここユグドラシルは過去の世界だと睨んでいるわけだが、二一世紀ではこのような性質を持った金属は存在していない。
まったくもって奇妙な金属だった。
この世界の謎は深まるばかりである。
だが、今だけはそんなことはどうでも良かった。
今、彼にとって重要なのはただ――
『もしもし! 良かったぁ。勇くん無事だったんだね!』
「わりいな、心配かけた。でも、俺はピンピンしてるから」
『うん、うん。ほんと良かったよぉ。おかえり、勇くん』
「ああ、ただいま。美月」
この神鏡の近くであれば、元いた世界と通信ができるということだった。
発見したのは偶然……ではなく必然。
来た時と同じように合わせ鏡をすれば、元いた世界に帰れるのではないか、そういう期待のもとやってみたのだ。
結果としては二一世紀に戻ることは叶わなかったわけだが、ふとスマートフォンを確認したところ、その画面に電波が通じていることが示されていたのである!
「聞いてよ、勇くん! 瑠璃ちゃんってばひどいんだよ」
「へえ?」
それからしばらく、勇斗は適当に相槌を打ちつつ美月のたわいない話に耳を傾けた。
内容は別になんだって良かった。
なるべくなら明るい話題が良かった。
お互い、相手の元気な声が聞ければそれで良かったのだ。
ただ、戦争のことはお互い暗黙のタブーとなっていた。
面白くないものになるのはわかりきっている。
この限られたこの時間を、辛気臭い話に費やして気分を滅入らせても馬鹿馬鹿しかった。
「それでね、それでね、瑠璃ちゃんったらさぁ」
ピーポッ、ピーポッ。
突如として俺の携帯から鳴り出した無情な警告音が、美月の言葉を遮った。
電池の残量がもう殆ど無いことを告げる音、だった。
『あっ……』
美月にも今の音が聞こえたのだろう。
残念そうな、寂しげな声が漏れ聞こえてくる。
気持ちは勇斗も、一緒だった。
楽しい時間というのは、本当に過ぎるのが早すぎる。
「……時間切れ、だな。また電話する」
『うん、待ってる。あっ、バイト代、少ないけどチャージしておいたから!』
「いつもすまねえな」
『それは言わない約束だよ、おとっつぁん』
ちょっとしんみりした声で美月は言って、次の瞬間、くすっと笑う。
古来からの定番お約束ネタだった。
「でもほんと……助かる。ありがとな」
『どういたしまして。えへへ』
少し照れたように、美月が笑みをこぼす。
勇斗がこの世界で生き抜くために買い漁っている電子書籍は、もちろんただではない。
その原資は、美月が毎朝、新聞配達をして稼いでくれたお金だった。
彼女には感謝してもしたりない勇斗だった。
『電話、待ってるから。ずっと、待ってるから。勇くんも身体に気をつけてね!』
「っ! ああ! わかってるさ。またな、美月」
別れの言葉とともに、勇斗は通話を切る。
一瞬、未練がましくボタンを押す指が固まったが、気合で押し切った。
美月にだけは、あまり女々しい姿は見せたくなかった。
この世界に放り出されて、勇斗はとことん思い知ったことがある。
自分がどれだけ美月のことが好きか、ということだ。
だから勇斗は、彼女のいる世界へと帰らなくてはならない。
「けど、帰れるの、か?」
途方に暮れたように、溜息をつく。
エインヘリアルの力で来たのだから、勇斗を元いた世界に帰す力を持ったエインヘリアルがいてもおかしくはない。
だが、いたとして、どこにいるのか。
交通手段も通信手段も限られたユグドラシルでは、まさに雲をつかむような話だ。
宗主の座に就いているのも、この地位にあれば各地の情報や噂に触れる機会が多いというのも理由の一つではある。
危険を冒してやみくもに各地を回るより効率的だろう、と。
もっとも今のところ芳しい成果は上がっていないが。
元いた世界の人間の助けも、期待できそうにない。
二年前、勇斗がいなくなったことは、一応問題にはなったらしい。
だが勇斗と美月の言葉は誰にも信じてはもらえなかった。
当然といえば当然である。
合わせ鏡をしたら別の世界に飛ばされたなんて荒唐無稽な話を聞かされても、大抵の大人はふざけるなとしか思えないだろう。
それでも付き合いのいい刑事の一人が冗談半分にあの神社の鏡を合わせ鏡で覗きこんだらしいが、何も置きなかったとのことだ。
結果、電話が通じることでむしろタチの悪い狂言としか思ってもらえず、また発信記録が八尾市内となっており緊急性が低いとして、単なる家出として警察には処理されている。
もっとも警察が本腰を入れて捜査したところで、真実にたどり着き、勇斗を救出できるとは思えなかったが。
「たとえ帰れたとしても……」
勇斗は自らの手を見下ろす。
すでにこの手は数多の血で汚れている。
こんな自分に、彼女に触れる資格などそもそもあるのだろうか。
自問しかけて、
「……って、やめだやめ」
勇斗は頭を振って嫌な考えを振り払う。
弱気になってどうする? 自分はなんとしてでも彼女の下に帰るんだ!
そう改めて心に誓う。
「父上、いつまでもここにおられてはお風邪を召されます」
「っ!」
背後からかけられた聞き覚えのある声に、勇斗は思わずビクッと身体を強ばらせた。
その、後ろめたさに。
振り返ると、ジークルーネがひっそりと立っていた。
おそらく電話中ずっと、黙って気配を押し殺して控えていたのだろう。
フェリシアが不在の時は彼女が勇斗の護衛を引き受ける手はずになっている。
彼女とて長い戦場暮らしで疲れているだろうに、身勝手な都合で駆け出した勇斗を、この長い階段を昇って追ってきてくれたのだ。
その忠誠が、今は心苦しい。
不意に、脳裏を《狼》の氏族の皆の顔がいくつもよぎっていく。
そう、自分はいつか帰らねばならない。
だが、ジークルーネだけでなく、勇斗を慕い頼ってくれる皆を、自分はその時、振りきれるんだろうか。
これほど世話になり、親しくなった人たちを。
一年前なら、出来た。
だが、今は自信がない。
翌朝。勇斗がスマートフォンを見ると、タスクバーに一件の不在通知と留守電があったことを知らせるアイコンが表示されていた。
着信履歴を表示させると、勇斗の唯一の肉親からだった。
おそらく美月が気を利かせたのだろう。
そのことを少し苦々しく思いながらも、彼女の性格的に仕方ないことだということもわかっていた。
だからただ機械的に、黙ってその留守電メッセージを消去した。
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