第八話
ユグドラシルは大きく八つの地方からなる。
うち、アースガルズ地方、ミズガルズ地方、アールヴヘイム地方は、『ユグドラシルの屋根』と称される二つの険しい山脈によってその行き来を遮られていた。
唯一、この三つの地方をつなぐ回廊となっているのが、山脈の間に細長く広がるビフレスト盆地である。
一〇〇年ほど前まではこの盆地一帯を治めていた《狼》であるが、分家筋の氏族たちの台頭により、今や回廊の西にわずかな領土しか持たない弱小氏族にまで落ちぶれていた。
盆地の西の出入り口に位置する《狼》の族都イアールンヴィズは、古来より交通の要衝として栄えてきた街である。
一方でその戦略的重要度ゆえ戦火が絶えず、街全体を人の身長の三倍ほどはあろうかという高い周壁が覆っている。その一角に、鮮やかに緑に彩色され白や黄色の狼が無数に描かれた、ひときわ巨大な門がそびえ立っていた。
「お帰りなさいませ、親父殿! 早馬から伝え聞いておりますぞ。此度の戦、《角》の宗主を捕らえる大勝とのこと、心よりお祝い申し上げます」
門の前までたどり着くと、すでに数十人からの兵士たちが集まっており、その中の一人が勇斗のチャリオットに駆け寄り声をかけてくる。
勇斗も男だ。
フェリシアやジークルーネのような美少女から「お兄様」とか「父上」と呼ばれるのはこそばゆいと思いつつも、内心ではまんざらでもない部分があるところを否定はできない。
だが、さすがに、四〇代をすぎた筋骨隆々のがっしりとした体格の、眉毛のあたりと頬に刀傷のある厳しい顔つきの男から親父呼ばわりされても、ただただ違和感しかなかった。
「ありがとうございます。ヨルゲンさんも留守居役、ご苦労様です」
勇斗はペコリと頭を下げ、礼儀正しく謝辞を述べる。
だが、ヨルゲンと呼ばれた男は、両眉の間にこれでもかとシワを寄せ、その厳つい顔をさらに厳しくする。
「いけませんぞ、親父殿。いつも申し上げておりますでしょう。宗主(おや)たるもの、子に敬語なぞ使ってはなりませぬ!」
「あ~~」
常日頃のお小言を思い出し、勇斗は渋面になる。
顔を付き合わせるのが一ヶ月ぶりだったため、すっかり忘れていた。
生粋の日本人であり、しかも田舎育ちの勇斗は、年上には敬意を払わなければならないと身体に染みこんでしまっている。
生まれた時から育んできた価値観というものは、そう容易に変えられるものでもない。
「俺もいつも言ってるじゃないスか。名前でいいって。敬語もいらないって。あなたみたいな倍以上も年上の人間にへりくだられるのはどうにも落ち着かないといか……ヨルゲンさんだって俺みたいな若造を父呼ばわりしてへーこらするのは違和感あるでしょう?」
「まったくございませんな」
一切表情を揺るがすことなく、ヨルゲンはしれっと言ってのける。
その鉄面皮からはわずかの感情も読み取ることは出来ない。
このあたりは年の功というやつだろう。
その顔に刻まれた深いシワの数々は、彼の経てきた人生の重みと、滅多なことでは揺るがぬ山のような安定感を感じさせた。
さすがは《狼》の氏族の押しも押されぬ№2、若頭として皆からその器量を認められている傑物の貫禄だった。
そんな人物に遜られると、どうにも尻がムズムズして居心地が悪くて仕方がなかった。
「つーか、そもそも俺は一年前のあの戦を乗り切るまでのつなぎじゃないすか。なんかずっとゴタゴタしててずるずると続けてますけど、ちょうど《角》との争いも終わりましたし、そろそろちゃんとした宗主決めましょうよ」
「はぁ? 今更何をおっしゃっておられるんですか。それはあくまで昔の話でしょう。この一年、目覚ましい結果を出し続けた貴方以上に宗主にふさわしい者など《狼》にはおりませぬ」
「いや、でもさ、やっぱ若造でよそ者の俺が宗主っておかしいッスよ。絶対ヨルゲンさんのほうが……」
「親父殿、年のことも生まれのことも、お気になされぬことです。この渡世は、器量が全て。私などより親父殿のほうがはるかに貫目は上です。これは氏族の誰に聞いても口を揃えましょう」
きっぱりとヨルゲンが言い切れば、
「まさしく。若頭には失礼ながら、確かに皆、父上を推されるでしょう。父上は一〇〇年に一人、いえ、一〇〇〇年に一人の英傑であらせられますから」
「ふふ、もちろん若頭も氏族の長として申し分ない器量の持ち主ではございますよ。ただお兄様が相手ではどうしても見劣りしてしまいますわね」
二人の話に聞き耳を立てていたらしいジークルーネやフェリシアが、勇斗をヨイショし始める。
おいおい勘弁してくれよ、と勇斗は溜息をつく。この二人、普段はけっこう意見が合わないで揉めるほうなのに、なぜか勇斗を褒め称える時だけは結託するのだ。
「……おまえらほんと俺を買いかぶり過ぎだって」
「買いかぶり? これは異なことを。命運尽きかけていた我が《狼》をたった一年で立て直し、《爪》と《角》を従わせるなど、少なくともわたくしには、そして若頭にも到底無理な御業でございます」
「否、父上以外のどなたにも不可能でしょう」
「だから! 俺のはただのチートだっつってんだろ! この世界にない知識があっただけで、別に俺がすげえってわけじゃ……」
「知識は所詮、知識。道具でございます。活かすも殺すもまた、本人の器量です。そして、貴方には間違いなくその器量がある!」
ヨルゲンが熱のこもった言葉とともに、グッと拳を握りしめる。フェリシアとジークルーネもうんうんと重々しく頷いている。
「ダメだ、こりゃ……」
説得の無駄を感じ、勇斗は手のひらを天に向け肩をすくめる。
一人でも面倒なのに三人がかりではとても手に負えそうにない。
確かに、ヨルゲンの言っていることは正論ではある。
だが、勇斗の持っている知識はこの世界においてはあまりに進みすぎたオーバーテクノロジーと言っていい代物だ。
そんな常識の枠では測れないと勇斗は思う。
認めてくれるのは、確かに嬉しい。
だが一方で、どれだけ持ち上げられてもそれは借り物の力のおかげとしか思えなかった。
だからこそ、思い上がらぬよう自分を律するのを勇斗は忘れない。
立派な宗主たらんと、自省する心を、学ぶ姿勢を、部下の言葉に耳を傾ける思慮を失わない。
勇斗はまったく気づいていなかった。
絶大な権力や莫大な富を得た者のほとんどが人が変わったように傲慢になる中、それは多くの人間を魅了する得がたい「王」の資質だった。
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