44、花



 自然坊に言われ、千尋丸は烏珠と相手の娘を引き剥がさんと宙を大股に闊歩していた。紅葉が見頃だったがそれには目もくれず、紅の帯を道にして悠々駆けた。


「ああ、面倒くせえ……」


 烏珠が骨抜きにされた女に興味はあったが、他人の恋路を邪魔して恨まれるのだけは御免こうむりたい。


「お前もそう思うだろう、セン」


 カア、ひ弱なカラスが千尋丸の肩で風に耐えながら細く鳴いた。


 当時、千尋丸は一羽のカラスを任されていた。

 お山に生まれた特別なカラスは成長すれば烏天狗となる。そのため大天狗・自然坊が世話役として天狗を一人選び、成長するまでの数十年間の面倒を見させる。正式な名は天狗になってその性質を見てからつけられるので、カラスのうちは先輩天狗の名の一字を呼び名にもらう。それで千尋丸は自分のカラスを〈セン〉と呼んでいた。


 卵はお山の至る所にぽんと出現する。自然坊が感知しそれを探し出すのも天狗の仕事だ。センの卵は風で転がったのか、川の石の間に挟まって冷えているところを千尋丸が見つけた。

 そのせいかセンは生まれつき弱々しい身体をしていたが気だけは強く、千尋丸に噛みつく輩がいれば止める間もなくつつきに行き、返り討ちにあった。お山生まれのカラスは自分の教育係に懐くものではあるが、センは特に千尋丸に対する独占欲が強かった。


 家の裏で千尋丸は花と対面した。烏珠はまだ来ておらず二人きりだった。人々から崇められていると聞いた通り、着物も家もそこそこ綺麗な物を与えられて食事もとれているようであったが、これまでの苦労が身に沁みついて落ちず、笑顔の裏に腐敗的なものが見え隠れしていた。


 ――これはまた……烏珠も面倒な女を好いたな。


 美しい娘ではあった。だが烏珠はそこに惚れたのではないだろう。彼は霊力が強く、いずれはお山全体の穢れを祓う役目を担っている。生まれ持った習性がこの娘の穢れを祓おうと働きかけていると考えられた。


 花のほうでも、千尋丸の自分を見る目が他と違うことに気がついた。自分の本質を見抜いていると直感した。彼女は千尋丸の袖を握り、また来てくれとせがんだ。

 そこへ折悪く烏珠が来てひと悶着あったが、千尋丸は自分も娘を好いていると勘違いされては迷惑だったので、センが花を気に入ったことにした。センは抗議するようにカアカア鳴いたが、花はセンのことも気に入ってくすくす笑った。笑えばぱっと花が咲いたようで、そこに倦んだ気配はなかった。烏珠はその笑顔を食い入るように凝視していた。


 ――危ねえなあ。こりゃちと見張るか。


 春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ――二度目の冬がやって来た。

 三人と一羽は飽きもせずほとんど毎日顔を合わせた。花は小物の妖を祓ったり天候を占ったりして村人の尊崇を集め、自分の地位を確固たるものにしていった。常にそばに控える烏天狗二人の存在がそれに一役買ったのは言うまでもない。魔女の神聖は村人の間で生き神の位にまで高まっていた。


 花の妹みつ、、は警戒心が強くなかなか心を開かなかったが、この頃やっと自ら話すようになった。花の裡に潜む闇が薄らいできたことにみつ、、も気がついたのだろう。姉には思うように生きてもらいたいのだと彼女は語った。

 みつ、、の話によれば、姉妹は遠い遠い国の由緒正しき巫女の家系であったが、政争に敗れた尊い身分の者に一族皆殺しの目に遭い、血の海の中、花は妹の手を引いて必死に地を駆け空を駆け、やっとの思いでこの天野にたどり着いた。自分たちにとってここが永住の地となることを願う――みつ、、は幼い面に影を乗せて言った。



 ある日のことだ。みつ、、が烏珠に飛行を見てほしいと言い、二人は連れ立って出かけていった。千尋丸と花は碁を打って暇を潰した。千尋丸のほうが少し勝っていた。

 珍しく長考していた花がだしぬけに言った。


「この子の天狗は私につけさせてくれないか」


 ぽとり、センが咥えて遊んでいた碁石を落とした。


「ああ? あー、別にいいが、なん……」


 カア! カア! 羽ばたきながらものすごい剣幕で千尋丸に訴える。


「まてまて、セン。話を聞こう。……花よ、理由はなんだ?」

「この子が烏珠のことをよく嘲笑うんだ。人に恋をする天狗は愚かだと」


 花は黒い碁石をパチリと打った。センはギラギラした目でその石を見ている。


「ふむ。……で?」

「〈恋什郎れんじゅうろう〉という名を与えてはどうかと思って。人に十ぺんも恋をすれば、この子もわかるようになるだろう」


 千尋丸が白い碁石を置いて中の黒石を取ろうとすると、センがくちばしで器用にそれを弾き出した。


「こら、やめろ。自分で取れる。……何が言いたい、花」


 花はちらとセンに目をやった。千尋丸は察してセンに声をかけた。


「セン、お前しばらく外に行ってろ」


 センは衝撃を受けてよろめき、そのまま土間に転げ落ちた。千尋丸はそれを掴んで空に投げ、センがあわてて羽ばたくのを見て戻ってくる前に戸を閉めた。外で悲痛な鳴き声が聞こえた。


「――で?」

「千尋丸は、恋をしたことは?」


 花が碁石を持つ。


「ないな」

「おや、てっきり烏珠彦かと」


 パチリ、打つ。


「なんでそうなる……」


 千尋丸は盤面を見て唸った。今の一手が痛いところを突いていた。


「烏珠は、おれがお前を好いていると思っている。どうやらセンも同じようだ。しかしお前はおれが烏珠を好いていると言う。お前らはおれに恋して欲しくてたまらないらしい。ならば答えよう、おれが恋をするとすれば、それはお山だ。我らの母なる天尻山だ。おれはいずれ大天狗になるからな」


 そこで千尋丸ははっと花を見た。


「……さてはお前、知ったな? 烏珠の先のことを。どこで――」

「本人が教えてくれた」


 そこら一帯の白が霞んで見えた。


「それで傷心なわけか」


 千尋丸が打った。打ちながら、これは負けそうだなと思った。さっきの一手が効いている。


「傷心と、希望だ」


 花が打った。強気に食い込んできた。


「希望?」

「私を烏珠の代わりに山へ入れてくれ」


 黒に白石をツケた。猛攻を止めねばならない。


「勝手な奴だ。生かされた烏珠がどう思うか考えろ。お前があいつを憎からず思っていることは知っているが、そこまでして――」

「違う」


 花は言った。


「……もう、疲れたんだ」


 黒が白を飲み込んでゆく。


「人の期待に応えることも、意に添えなかった時殺されるかもしれないと恐怖することも、好いた男と添い遂げられないことも、全部……疲れた。終わりにしたい」


 千尋丸は盤面の活路を探した。


「妹を置いていくのか」

みつ、、はすでに説き伏せた。今日烏珠を連れ出してくれたのはそういうことだ。私が入山することによりあの子の暮らしが安泰なものになるよう手筈を整えておく。あの子は私より賢く強かだから、人の世でも生き抜くことができるだろう」


 盤上は特に激しい戦いの痕跡を残していない。ただこうして見ると、緩やかに白の生きる道は閉ざされていた。


「自然坊に取り次ぎを頼む。千尋丸、嫌な役回りだがこういうことはお前にしか頼めない。お前は私にとって一番の友だ」

「そのせいで烏珠に敵視されている」

「すまない」


 花はくすくす気楽に笑う。勝ったと思っているのだろう。千尋丸は往生際悪く盤面を睨んだ。


「そうだ、もう一つ頼みたいことがある。入山する時――」


 それを聞き、千尋丸はガバッと盤面に覆い被さった。


「ちょい待ち!」


 盤にぐぐぐと顔を寄せる。花が「おい」とか「それ近すぎて見えてないだろ」とか言っているが、気にならなかった。


 白の生きる道が、あった。


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