42、媒体
「足、痛い……」
羽菜はスマホのライトをつけ、ほとんど四足歩行になりながら山を登っていた。昔、祖母から聞いたことを思い出したのだ。山で迷った時は下るのではなく、登りなさいと。
花梨のステッキは杖本来の役割を果たしてくれている。藪を払うのにも非常に便利だ。花梨には怒られそうだが、初の自力飛行で暴走した記憶はまだ生々しい。助けが来ないとわかっていて、そうなる勇気は持てなかった。
スマホの電波はない。千尋丸の笛もない。
――烏珠もいない。
暗い山の中に都会っ子一人。励ましてくれるのは月明かりだけ。あとは蝉の声と、時折聞こえてくる何かの鳴き声。その
夜中の山中を歩くなんて、愚か者のすることだ。日の出まであの場に留まるべきだった。頭ではわかっていたが、生気を失った烏珠の顔を見ると歯が鳴ってやまず、耐えられなかった。
――怖い。怖い……。
もし明日になっても見つけてもらえなかったら。もしくは、天狗たちはとっくに羽菜の居場所を知っていて、死ぬまで放置するつもりなのだとしたら。
――お母さん……。お父さん……。
何か役立つ物をリュックに入れてこなかっただろうか――と、そこで、千尋丸の下駄のことを思い出した。嵩張って邪魔でも持ってきたそれ。こんな場所でサイズの合わない高下駄を履き、誰にも見つからない山奥で転げ落ちるなんて、笑い話にもならないだろう。否、笑えなくとも話にできるならまだいいのだ、見つけてもらえたということなのだから。
――ここ、どこなんだろう。神域の中なら、日が昇っても人間の助けは来ない。天狗が人を救うことを信じて待つしかない……。
下駄の存在を思い出すと、途端に千尋丸が恋しくなった。足が鉛のように重くなり、心の中で文句を吐き出す。
――あの下駄は期待を持たせるだけの役立たず。次に立ち止まった時に捨ててやろうか。そうだ、使い道のないお荷物なんて捨ててやれ。……じゃないと、あれで自分を殴ってしまいそう。
やがて大木の根が地中と外を波打つ間に、畳一畳分ほどの空きを見い出した。
かの有名な地獄の蜘蛛の糸を思わせるような、心もとない月明かりが一筋差し込んでいる。羽菜はそこに倒れ込むようにして尻もちをついた。おでこに当たる光は思っていたより太く明るい。
鎖骨にステッキを立てかけ、股の間に置いたリュックを開ける。制服のスカートはきっとドロドロだろうが、どうでもいい。無事に生きて帰れればそれでいい。
開けてすらいなかったペットボトルのお茶を一気に半分ほど飲んだ。ぬるかったが、美味かった。
夜風も心地よい。火照った顔が冷めてくると、疲労にもう一歩も動けなくなった。ここで眠って、目が覚めたら全部夢だったことにならないだろうか――馬鹿げた考えだ。頭を振って打ち消した。
ペットボトルをしまうついでに例の役立たずを引っ張り出し、ポイポイッと地面に投げる。右が晴れ、左が曇り。羽菜の心は雨模様。
――一番の役立たずは、このあたし。
ぽたぽた、何の役にも立たない雫が落ちた。胸が震えて嗚咽が漏れる。抑えようとしても声が出る。泣いたって仕方がないことはわかっているのに。
下駄に触れ、手繰り寄せてかき抱いた。
――飛べたらよかったのに。飛べたら誰かを呼んで烏珠の所に導いて、あたしは瑞希おばさんを助けに行くの。ねえ、どうしてあたしは飛べないの。なんでこんなに馬鹿で、お荷物で、できそこないの――。
はっと顔を上げた。涙と鼻水でべしょべしょの顔で腕の中の下駄をまじまじと見る。
――なんだろう。なんか、ドキドキする。
千尋丸の下駄だからだろうか。こんな目に遭っても、自分は彼のことが好きなのか。
――違う。そうじゃない。これはそういうのじゃなくて……!
地面に下駄を置き、丁寧にそろえる。
立ち上がって裸足になり、花梨のステッキでバランスを取りながら、そうっと右足を乗せる。次いで左足も乗せる。
分厚いまな板の上に立っているみたいだ。二枚歯のお陰で安定感がある。下駄に不慣れな羽菜でも難なく立てる。粗野なようで、いつも気遣ってくれる千尋丸。これは彼との最後の繋がり。
羽菜は花梨のステッキを両手で握りしめ、祈るような気持ちで――。
「……飛べ」
何も起こらない。当然だ。
それでも胸の高鳴りを抑えられない。足の裏から沸騰するように湧き上がってくるのは、恐怖をも吹き飛ばす大きな予感。
――予感? 違う、これは予感なんて曖昧なものではなくて――!
「飛べ。……飛べ」
あの時、空の上で三人娘の行く手を遮り、烏珠は言った。
――天野の魔女は生まれながらにして花の媒体を使い、内部で反発して魔力を削られ続ける。
ステッキの暴走の後、羽菜が無事に戻ってきた時、六花は言った。
――私たちだって初めて飛ぶ時は、多少の暴走があるものなのに。
羽菜に〈花〉の一字はないが、花梨のステッキを使って魔力の扉をこじ開けた。それはつまり自身の媒体さえあれば、他の魔女と条件が同じになったということ、つまり飛べるようになったということではないか?
――それなら今あたしが感じている、これは――!
足もとで風が起こった。
下駄を履いた足がぶわっと浮いた。
地上からたった三十センチ。それでも羽菜を中心にして風が生まれ、徐々に強さを増して暴風になった。
木々がバチバチ鳴って枝葉を散らし、置きっぱなしにしていたリュックがどこかへ吹っ飛んだ。
「飛べ!」
体が上空に放り投げられ、気づけば全身を月明かりに照らされて一回転、さらにもう一回転、危うく下駄が指の隙間から抜け落ちそうになって力を込める。踏ん張りがきくと風が静まり、羽菜の体の内側でだけ巡るようになった。
羽菜は呆然と宙に浮かんだ。
――飛んだ。
飛んだのだ。今度こそ、自分の力で。自分の媒体で。
――千尋丸。あなたの下駄があたしの魔道具。これを運命だと思うあたしは、やっぱり馬鹿なのかな。
高く昇り、闇が蠢く山を見下ろした。遠くにやけにキラキラ光る集合体が見える。祭りの明かりだ。人の明かりだ。なんと温かい。ぐんぐん勇気が湧いてくる。
もっとずっと遠くには、一等星だけを集めたような光の海が見える。夜も眠らぬ都会の光。あの海の中には大勢の人がいる。全部器に入れて逆さに振れば、二等星や三等星や、さらに小さな星も見つかるだろう。二個三個がくっついて強く光るかもしれないし、角度や距離が変われば一等星になるかもしれない。
――みんな一生懸命生きている。あたしだって、甘ったれなりに、一生懸命。
羽菜はより暗いほうへと体を向けた。月に負けない星明かりが愛おしく思えた。
――人の明かりが見えたってことは、ここは神域じゃない。誰か教えて。あたしが今、一番に行くべき所……。
ふいに手を引かれた気がした。
――風があたしに「こっちだよ」って言ってる。大丈夫、ついて行くから導いて。
月光を纏った魔女は、サイズの合わない下駄で不格好に夜空を駆けた。
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