【7】天狗の花

40、烏珠彦(1)



 ぜいぜいと荒い息がますます不規則になって、最後に大きく痙攣すると、空の真ん中で動きを止めた。


 羽菜はなの頭は烏珠ぬばたまの胸に押さえつけられ、体もすっぽり腕と着物に隠されて外気に触れる箇所がなく、衝撃をさほど感じずに土や木々の匂いを嗅いだ。


 体の下敷きになっている男はかろうじて胸を上下させているだけで、指一本動かさない。無論、いつもの憎まれ口もない。


「助けたのが千尋丸せんじんまるでなくて、悪かったな……」


 否。口だけは達者だ。


「ごめん烏珠、今どく!」


 辺りは真っ暗で何も見えない。急いで男の上からどくと一気にバランスを崩し、体が重力に従おうとしたところ瀕死の男に腕を捕まれ事なきを得た。今いる場所は緩やかな斜面のようだ。日中の草いきれの名残が強く香る。


「暗がりで無闇に動くな……」


 やはり声に覇気がない。


「烏珠、怪我してるんでしょ。どこ? 翼?」

「してない……」

「今嘘を吐くメリットってある?」

「本当に、怪我はない……」

「羽ばたきが変な音だった! 見せて!」

「見えないだろう……」


 羽菜は慎重に烏珠の体を跨いで斜面の上側に移ると、リュックを前に持ってきて中を漁った。


「待ってね、スマホのライトがあれば……」

「見えないくらいがちょうどいい。お前の顔は見たくない……」

「ああん?」


 当てずっぽうでぶん殴ってやろうかと思った。しかし烏珠は弱々しい声で、


「お前の顔は……あまりにも……花に似ていて……」


 羽菜は束の間男の顔辺りを見つめたが、すぐにスマホ探しを再開させた。


「あたしは自然薯?」

「長芋……」

「ですよね」


 スマホに手が触れた。取り出して画面をつける。電池残量四十パーセント、電波はなし。携帯充電器も持ってきているので電池は心配ないが、圏外なんて今時滅多にお目にかかれない表示だ。


「そう、おわかりの通り、あたしは花さんじゃないの。だから言うことも聞かないし、優しくもない」


 烏珠の手がスマホの上に被さった。


「ライトはいい、それは目に刺さって嫌だ。今宵は満月だ、月明かりを借りる……」


 烏珠が腕を持ち上げた。周辺の木々がさざ波のような音を立て、羽菜たちから身を遠ざけるようにそれぞれがちょっとずつ傾いた。天井が開き、煌々とした光が天使の梯子のように差し込んで、羽菜と烏珠の上に降り注いだ。


 光のせいだけではないだろう、烏珠の顔色は石灰石のようで、紫の唇も相まって作り物めいていた。


 ざっと確認したところ、たしかにどこにも怪我はなさそうに見えた。翼も折れていないが、力も入っていない。烏珠は目を瞑り、苦しそうな呼吸を繰り返していた。


野分のわきと戦ったの?」

「……ああ」

「それで疲れているの?」

「天狗の神力はお山を守るためにある。それを同士討ちのために使うと拒絶反応で体に激痛が走るのだ」

「じゃあ、野分も今頃……」

「野分の術は本来、攻撃よりも捕獲を得意とする。だが俺が本気で抵抗したので、本人も攻撃に転じざるを得なかった。それにあいつはああ見えて気が短くてな。あれだけ攻撃してきたのだから、あいつも無事では済まないだろうな……」


 蝉の声もフクロウの鳴き声もしない、静かな夜だ。羽菜は自身の穏やかな心音に耳を傾け、目を閉じたままの美麗な烏天狗を見つめた。


「烏珠は、どうしていつもあたしを助けようとしてくれたの?」


 長い睫毛が持ち上がり、わずかに覗く瞳が月の光に反射した。そのせいで潤んでいるように見えてドキッとした。


「お前たちの先祖、天野の初代と約束したのだ。二度と花のような娘が出ないよう、俺が見張ると……」


 烏珠は羽菜の顔の上に瞳を動かした。


恋什郎れんじゅうろうはお前に何をどう伝えた? どうせ昔話を聞かされたのだろう」

「花さんが妹と一緒にこの地に来て、烏珠と三日三晩戦って、烏珠と千尋丸と仲良くなって、花さんの希望でお山に入った――って感じかな。あってる?」

「そうだな、大まかに言えばその通りだ」


 烏珠はゆっくり、ゆっくり、置いてきた時間に心を浸していった。


「花は独特の空気を纏った娘だった。強かった……。戦った時、俺の風が彼女の味方について、俺は困惑と共に興奮した。神に愛されし娘、魔を払う巫女。その神聖さに惹かれ、俺は時間を作っては彼女に会いに行った。

 じきに俺は彼女の苦しみを救いたいと思うようになった。勇敢のように見えて無謀、思いやりあふれるようで自己犠牲的、俺は若い彼女がその尋常ならざる能力ゆえに、心の裡に人生の諦念と寂寥感を抱えていることが不憫でならなかった。それで通う頻度を増やしたのだが……、仲間に、彼女に入れ込みすぎていると言われてな。お山の守りをおろそかにしたつもりはないが、自然坊や他の天狗には眉をひそめられたな……。そして千尋丸が来るようになった」


 くくっと烏珠は喉を鳴らした。


「俺の見張りのために寄越されたはずだが、千尋丸まで彼女に惹かれた。あいつめ、自分のカラスが花を気に入ってしまったとかなんとか言い訳しよって……小癪なことだ。だが花は千尋丸を気に入った。俺はあいつを憎んだよ。あいつを視界に映すのも嫌になっていった。恐ろしいものだ、一人の娘のために、兄弟のように育ったあいつを……」


 烏珠はふうーと長く息を吐いた。紫色が歪んだ。


「俺はお山と一つになることが決まっていた。それで……俺は花の同情を引こうと、彼女にそのことを話したのだ。離ればなれになるその直前まで彼女を独り占めしたかった。しかしそれが……まさかあんな……」


 烏珠は壊れてしまいそうなほど震えながら左腕を持ち上げ、骨張った手で顔を覆った。隠しきれず晒された肌を月の雫が伝い落ちていった。


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