39、襲撃
夜空は青く月明かりが行き届いていて、どろどろした闇が蔓延るのは地上だけのようだった。
真っ暗よりも真っ黒という表現が正しいような杉の木の周りを懐中電灯で照らしながらぐるっと見て回ったが、人が倒れているなんていう心臓に悪い現場には出くわさなかった。がっかりしたような、ほっとしたような。
「今、父さんに連絡を入れた。母さんとわたしは今夜こっちに泊まるって」
花梨の顔がスマホの明かりに白く浮かび上がっている。
「それ……もし明日までにおばさんが戻らなかったら……」
「取り返しに行く」
六花に顔を向けると、花梨の頬から上が闇に紛れて、瞳だけがキラッと光った。
「一人でも行く。止めないでね、六花」
「冷静になれ、なんて無理だよね、さすがに」
「うん、無理。もう待てない。行く」
「でもどうやって……」
「あえて天狗に捕まってみる」
おどけた口調で言うが、ステッキを胸の前で握りしめる。
「あとは成り行き」
はあー、と六花がため息を吐いた。
「私は飛べる者としてここに残るよ。あんたまで行ったら、ご当主に伝えないわけにいかないし。で、羽菜は――」
六花は羽菜を懐中電灯で照らした。
「……なんでリュックを背負ってきているのかな」
「あたしも花梨と一緒に行く」
二人が何か言う前に、急いで続けた。
「あいつら、もとはあたし狙いじゃん。それに千尋丸か烏珠に会えるかもしれないでしょ。花梨だけが行くより、あたしも一緒に行ったほうが――」
「おやおや、若い娘が夜遊びとは感心しないね」
ヒュウヒュウと風が鳴るような不気味な声が、三人の間を通り過ぎた。
「千里……!」
夕方と同じ枝の上に千里がいた。周囲には青い鬼火を揺らめかせて、いかにも人ではない感じがこちらの言葉を飲み込ませる。
よく見れば別の枝には薄墨がいた。緊張した面持ちで像のように固まっている。
千里がやれやれと首を振った。
「やっぱりさ、瑞希じゃだめだったよ。だから羽菜、迎えに来たよ」
花梨が息を呑む。
「母さんは……」
「まだ向こうにいるよ。千尋丸と二人で粘っていたけど、どんなに足掻いてもだめだね、あれは」
「え?」
羽菜は動揺して胸をぎゅっと押さえた。
「おばさんにも御神体が見えたってこと……? 千尋丸の声も聞こえるの?」
「そうなんだよ、羽菜!」
千里は急に子どものようにはしゃいで腕を広げた。
「千尋丸はよく気がついたものだ! 御神体の水を飲ませたんだよ! 惜しいことをした。ぼくもあの時、うがいではなく飲むようお前に勧めていればよかった」
千里は自らの体を抱きしめ、身を捩らせた。
「これだから千尋丸はすごいんだ。人を御神体に触れさせるだけでも勇気がいるのに、飲ませるなんて発想はどうやったら出てくるんだ? 千尋丸こそ天狗の中の天狗だよ」
それからすっと目を冷たくし、羽菜を指差した。
「だから羽菜、お前は御神体にその身を捧げろ」
――接続詞の使い方がおかしすぎない?
突然、後ろで花梨と六花の悲鳴が聞こえた。振り向くと千里の大カラスが二人に襲いかかっていた。
「ちょっと――!」
「ごめんな、羽菜」
いつの間にかすぐそばに薄墨がいた。キンキンした部分が抑えられ、ぼそぼそと覇気のない声に背筋が凍った。
――やば……!
その時、ドン! と体に衝撃が走った。
「羽菜!」
花梨が叫んだ。
青い鬼火に囲まれた花梨と六花が目をまん丸に見開いてこちらを見上げている。
薄墨もぽかんと口を開けている。――薄墨が、下にいる?
羽菜の頭上に聞こえる荒い息遣い。翼の羽ばたきも不規則で変な音だ。うまく機能していないような、どこか壊れているかのような――。
「烏珠彦……! くそっ、野分進は何を……!」
千里がものすごい剣幕で怒鳴った。
「薄墨丸! 早く取り返せ!」
一瞬、ガクッと高度が下がった。後ろから苦痛の呻き声がした。薄墨はまだ動いていない。ということは、この不規則な呼吸はもとから負った――。
「烏珠……?」
羽菜が背後の顔を覗こうとした時、花梨が動いた。前に飛び出し、ビュッと上にステッキを投げつける。
それが烏珠の脇腹に当たった。烏珠は忌々しげに呻くと、バン! と音を立てて翼を広げた。
羽菜は紺色の世界の中心で輝くそれに、否応なしに近づいていった。
月だ。そう思った時にはすべてが流体となり――、
消えた。
羽菜と烏珠が去って静寂が訪れると、最初に動いたのは千里だった。
「あーあ……」
千里は右手で額を押さえ、左手でレンを呼んだ。レンは千里の肩に止まり、申し訳なさそうに頭を下げた。
「レンは悪くないよ。……野分進、あいつ無事かな。烏珠彦の様子を見るに、相打ちって感じなのかな。薄墨丸、説教は後だ。山に戻るよ」
烏天狗たちは、残された娘二人には見向きもせずに飛び去っていった。
花梨は羽菜と烏珠が去った方角を見上げたまま動かない。六花もその横で黙っていたが、やがて声をかけた。
「花梨あんた、ステッキを……」
「うん」
花梨の声は淡々としていた。
「あいつ、持っていったね」
「わざと?」
「うん。……たぶん意図は伝わってる」
「瑞希おばさんを自分で救いに行けないよ。よかったの?」
「うん」
花梨はゆっくりと六花に向いた。
「親友の助けになるならいい。……それに」
こてんと首を傾ける。
「わたしは六花に連れて行ってもらえるからね」
六花は持っていたスマホの画面をつけた。白い光が目を刺した。
「お母さんに連絡入れとく。全部話すよ。いいね?」
「もちろん。後で一緒にめちゃくちゃ怒られよう」
花梨は六花の涼しい横顔を見た。
「前に羽菜がわたしのステッキで行方不明になっちゃった時も思ったけどさ、あんたって意外と加担してくれるよね」
六花は文字を打ち込む指をいったん止めて、
「私も……親友の助けになるならこんなの……別に」
と、またスラスラ指を動かした。
腕を巻きつけようとする花梨とそれに抵抗する六花の闘いが始まろうとしたその時、真後ろの茂みで獣が通るような物音がした。
二人は硬直し、鏡みたいに顔をそろえて振り返った。
こんもり盛り上がった黒い影、二つの目玉が娘たちに狙いを定めていた。
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