38、娘たちの留守番(2)
二十時、夏といえどもさすがに外は暗い。生ぬるい風と途切れることのない蝉の鳴き声が先を争って網戸の目をかいくぐり、重たい夜の闇だけが中に入れてもらえずそこら中にまとわりついている。
祖母と風花おばには連絡していない。祭りの仕事で忙しいだろうし、帰ってきてもらったところで飛行能力のない大人には何もできない。
警察なんて論外だ。山を捜索するにしてもこんなに暗くなってからでは明日の朝を待てと言われるだけだし、そもそもふつうの人間が天狗の神域には入れないだろう。
詰まるところ今は待つことしかできない。歯痒さや後悔や不安の波が三人の間にぐるぐる渦潮を作るだけの、気分が悪くなるような時間を無為に過ごすしかない。
「羽菜」
花梨は止まりかけていた涙を再びなみなみと目に溜めた。
「千尋丸は本当に母さんを返してくれるかな。どこも怪我なく、無事に」
わからない。返してはくれるだろうが、無事かどうかまでは言っていなかった。
正直にそう伝えると、花梨は唇を噛みしめて嗚咽し始めた。
「あいつじゃないけどさ」
と、唐突に六花が言った。
「私も花梨は自分の母親のことを本気で嫌いなんだと思ってた」
それは羽菜も思ったことだった。二人にじいっと見られ、花梨は目をこすった。
「わたしのこれは、ただの反抗期」
「自分で言うんだ」
羽菜の突っ込みに、花梨はへにゃへにゃ笑って返した。
「母さんは自分の娘より、従姉妹の娘ばっかり気にかけるから」
これには羽菜もたじろいだ。
「あたしのは、だって……ほっとけないからでしょう。飛べない同士の情けだよ」
花梨はグラスに半分以上あった麦茶を豪快に一気飲みした。そうして空にしたばかりのグラスに吐息を注いだ。
「小さい頃からさ、母さんに言われてきたんだ。『羽菜を守ってあげなさい』って。天野にいれば羽菜は絶対つらい思いをするだろうから、それが少しでも軽くなるように、あんたがそばにいてあげなさいって」
空の上で六花に本心を聞いた時のように、存外穏やかな心で羽菜は問うた。
「それで花梨はあたしと仲良くしてくれていたの?」
花梨は泣き笑いで答えた。
「本気で言ってる? このわたしの深い愛が、全部人に言われてやったことだって?」
深い愛ってなんだ――なんて茶化さず、羽菜は首を横に振った。
昔から、帰省すればいつも隣には花梨がいた。二人一緒に遊び、大人にいたずらを仕掛け、美味しい物を食べ、眠った。
喧嘩だってした。数えきれないほどした。それでも羽菜に何かあれば花梨がすっ飛んできて仲直りした。
そういう時、花梨は今日みたいにへらへら笑って謝ってくれた。その笑い方のせいで余計に頭にきたこともあったけれど、思い返してみれば羽菜から謝ったことがあっただろうか。いつも花梨が先に謝ってくれていなかったか。
――花梨はお母さんが大好きなんだね。
そして羽菜のこともちゃんと好きだと思ってくれている。母親に言われたことが一番だろうが、花梨は意思のしっかりした娘だ。ここで歪んだ考えに至るほど、羽菜も曲がってはいない。
――六花だってそうだ。自分自身に苦しみながらも、あたしのことを思ってくれていた。
皆、内なる敵と闘っていて、少しずつ打ち勝った部分で他の人に優しくしている。
――世界はあたしが思っているより前向きで、明るい。花梨の言う通りだね。
鼻から大きく息を吸う。夏の匂いに交じって涙の匂いがした。どちらも湿って重く、温かかった。
――天狗には、ならない。
「二人とも、ありがとう!」
大声で言って思い切り頭を下げると、花梨と六花は目をぱちくりさせて睫毛に残った雫を散らした。
羽菜は勢いよく頭を上げた。
「今まで本当にありがとう。お陰であたしは、たくさん甘やかされて育ちました!」
「それはありがとうなの?」
珍しく六花が茶々を入れたが、羽菜はにっかり歯を見せた。
「ありがとうだよ! ごめんなさいじゃ、これまで二人がしてくれたことが悪いことだったみたいになっちゃうでしょ」
羽菜は正座に座り直した。
「巻き込んだことに関しては、ごめん。あたし浮かれてて、馬鹿だった。でもその反省は後回し。瑞希おばさんがこのまま帰って来ない可能性を考えて、二人の意見を聞かせてほしい。あたしたちはどうすべきだと思う? ちなみに千尋丸には追ってくるなって言われました」
六花が即答した。
「烏珠彦――だっけ。あいつと会って力を貸してもらう」
「それは無理!」
今度は羽菜が即答した。表情を落とした六花が無言の膝歩きで距離を詰めてきた。
「いや、ごめん……! ほんと烏珠だけは勘弁っていうか、相性が……! 他の天狗はどうかなあ?」
「私、千里の話でちょっと引っかかったの。烏珠はなんで〈花〉の字の呪いを知っていたの? 他の天狗は知らなかったのに」
「それ、わたしも思った!」
花梨が四つん這いで近寄ってきた。
「あとさ、わたしあいつに攻撃されたけど、落ちたのが
六花はうなずき、羽菜に向き直った。
「羽菜は? 烏珠っていつもどんな感じだった?」
「……会う度に怖い顔で脅された。たぶん、今思えば本気で忠告してくれてた」
しぶしぶ認めた。六花はふむと顎に握りこぶしを当てた。
「彼は他の天狗とは考えが違うってことかな。ぜひ話をしたいけど……」
「むりむり、ないない! だって怖いし!」
「羽~菜~」
横から花梨の凶暴な手が伸びてくる。お尻で後ずさりしたら「畳が傷む!」と六花に叱られた。
「ごめん! でも本当にこっちから会う方法はなくて! 千尋丸を呼ぶ笛も……もう……なくて」
千尋丸の笛はもう持っていない。首にかけていたはずの赤い紐ごとなくなっていた。――おそらく、千尋丸が持っていった。
六花は畳にぺたんと尻を落とし、思案顔をした。
「たしかに……烏珠に会うのは難しいかもしれないね。私が千里と薄墨に捕まっていた時、あいつ、もう一人の天狗と戦っていたから」
「た、戦ってた? もう一人って――」
羽菜はあっと口を覆った。
「野分! さっき千里と薄墨しかいなかった」
「そうそれ、すごい名前だよね」
知識人、六花は言う。
「台風って意味だもん」
――本名は
「ねえ、もうすぐ二十一時だよ」
スマホを見た花梨が言った。
「母さんは……」
三人で顔を見合わせた。六花が網戸の前に行き、真っ暗な外を見つめた。
「……千年杉まで行ってみようか。羽菜みたいに倒れているかもしれない」
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