33、天狗の目的



 二人は千年杉の裏にいた。いつもは豪雨のような蝉時雨が静まり返っている。


「千尋丸……」

「すまなかった」


 千尋丸のなめらかな低い声と大きな手のひらが羽菜の頭を押さえた。羽菜はそれに心地良さを覚えたが、浸っている場合ではない。


「ねえ、六花は? 六花は無事? なんであの三人も来たの? どうしてあたしだけ――」

「あの娘は優秀な魔女だ、上手くやるだろう。それに恋什郎もいるから問題ない。お前さんはおれのことだけを考えろ」


 ドキンと胸が高鳴った。見上げる千尋丸の顔は近く、黒髪が簾のように周囲を塞ぎ、初めて会った日を思い起こさせた。


「……烏珠が、あたしは飛べないって」

「そうか。……実はな、おれはここ数日、それを探していたのだ」

「それって……?」

「飛べないお前さんを飛べるようにする方法」


 ぎゅうっと胸が締めつけられる。視界が水の膜に覆われ、大好きな彫りの深い顔が見えづらくなる。


「大天狗さまのお叱りを受けたっていうのは、それ……?」


 千尋丸は指で羽菜の涙をすくい取り、くっと右側だけ口角を上げた。


「大したことじゃねえさ。おい、もう一人飛べない魔女がいるだろう。そいつもここへ連れて来い」

「瑞希おばさん?」

「そうだ。気にしていただろう」


 羽菜はここで夢から覚めるような、頭が少しクリアになるような感じを覚えた。


「おばさんのことも飛べるようにしてくれるってこと? ……どうしてそんなに良くしてくれるの?」

「お前さんは自分だけ飛べればいいと思うのか? いいからその瑞希おばさんとやらを呼んで来い。時間がねえんだ」


 千尋丸は羽菜の肩に手を置いてくるっと方向転換させた。


 ――いやいや……、どんなにあたしが馬鹿でも、さすがにこれは……。


「じゃあ一緒に呼びに行く? あたしが招いて表の玄関からちゃんと入れば、烏天狗でも屋敷に入れるんじゃない?」


 花梨は屋敷に向かって飛ばされた。彼女が無事ですでに室内にいるなら、この状況について話すことができるかもしれない。屋敷にどれほどのまじないがかけられているのか羽菜は知らないが、天狗の力を削ぐとかなんとか、何かしら対策はされているはずだ。このまま外にいるよりはずっといい。


「いや。おれにはちと敷居が高い」


 ――だめか。


「入ることが無理?」


 烏天狗は点頭する。


「敷居とは何のためにあるか知っているか」

「知らない……」

「あれは内と外を分ける境界、魔を入れないための境界線だ。高い敷居を魔物は跨げない。おれたち天狗は魔ではないが、天野の屋敷は天狗も魔の内に数えている。唯一この千年杉だけはもともと天狗の所持する木でな、お前さんとの待ち合わせ場所をここにしていたのはそういうわけだ」


 ほうと羽菜は感心し、ついいつもの調子で軽口を叩いた。


「じゃあ、バリアフリーの現代は魔物が入り放題だね」

「その通りだ。だから帰宅しても調子が悪い者が多いのだ。敷居がないならせめて玄関前で軽く体を叩いてから家に入れ。本当は塩を振りかけるほうがいいんだが……現代人は人の目が気になるだろう」


 講義を終えると、千尋丸はまた羽菜を急かして背中を押した。


「何事も昔からあるものには意味があるってこった。……ほれ、瑞希とやらを呼んで来い」


 ――昔からあるもの。意味。


 羽菜は足を踏ん張った。


「千尋丸は知っていたの。〈花〉の字が媒体だってこと」

「おい、羽菜……」

「答えて。知っていたの」

「……知っていた」


 羽菜は二歩、天狗から距離を取った。


「あたしと会っていたのは、なんのため?」


 空がうっすらと陰り、山の木々がざわめいた。




「羽菜?」


 その声にバッと振り返る。一番近い離れの橋の上に瑞希おばが立っていた。


「お、おばさん……」

「そこで何してるの?」


 瑞希が鋭く聞いた。他の魔女はこの千年杉にあまり近寄りたがらない。彼女たちが口をそろえて「なんとなく怖い」と言っていたのは魔女の直感だったのか。


「羽菜」


 千尋丸が低音を響かせる。


「あの……、おばさん、花梨を呼んで来てくれない?」

「え?」

「花梨を呼んでほしいの!」

「おい、羽菜!」


 千尋丸が吠える。これは聞こえたのではないか――ところが瑞希は何の反応も示さない。


 ――そうか、おばさんには天狗の声が聞こえないんだ!


「……何かあったの?」


 羽菜の挙動を不審に思われてしまったようだ。おばは備え付けのサンダルをつっかけて近寄ってきた。Tシャツにジーンズが似合うのは娘と同じだ。黒髪のショートヘアはおばのトレードマークで、それ以外の髪型を羽菜は見たことがない。首にタオルをかけ、手には軍手をはめていた。


「三人で山に行くって置き手紙にあったけど、誰か怪我でもしたの? 羽菜? それとも六花? 花梨は何をしているの。獣が危険だからあまり山に近づかないようにって、あの子には日頃から散々言い聞かせているのに……。ニュースにもなったと思うんだけど、去年この山の裏側で中学生の男の子が猪にはねられて、意識不明の重体になったのよ。その猪、まだ殺処分されてないって話で――」

「違うの! おばさん、来なくていいから!」

「まさか、まだそこに猪がいるの? 背中を向けちゃだめよ! ちょっと待ってなさい、今――」


 おばは日向でぴたりと足を止めた。雲が太陽から退き、影を濃くする。


「……そこに何があるの?」


 危険は香るものだ。そしてそれには種類があり、今の危険が獣のそれではないと瑞希は嗅ぎ取った。あと一歩の所で千年杉の影が蠢いている。


「勘が鋭いな」


 羽菜の背後で翼と衣擦れの音がした。羽菜は千尋丸に後ろから抱き込まれ、口を手で塞がれた。


「んむっ……!」

「! 羽菜ちゃん?」


 顔を歪めた羽菜が怪我を負ったように見えたのだろう、瑞希は影に足を踏み入れた。



 派手な演出は何もなかった。風はむしろ凪いでいた。



 急に背中の熱がなくなって、羽菜は空の上にいる時のような解放感を味わうと共に、眼前で起こるものを映画を観るように眺めていた。


 千尋丸は瑞希の額を指で突いて意識を奪い、その腕に抱き――羽菜に向いた。


「お前の魔力はすでに傷ついている。できそこないの魔女はいらん。この女は後で返すから屋敷で待て。追って来るな、羽菜。次に会う時お前に手を下すのは烏珠ではなく、このおれだろう」


 バッと視界が塞がれた。音も聞こえなくなった。何が起こったか考える間もなく、羽菜は闇の中に意識を落とした。


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