29、天狗の気まぐれ
あっという間に午後の三時を回った。今日はこれだけで終わりになりそうだ。
千尋丸は少し前からボーっと宙を見つめて動かない。何か考え事をしているようだ。そうしていると傲岸不遜な態度も鳴りを潜め、ただただ格好良く見える。
――こんなふうに思うようになるなんて、あの衝撃的な出会いの時には想像もしなかったな。
千尋丸が好きだ。だけどこうして会えるのはあと十日程度、お盆の途中で羽菜は都内の家に帰り、次に会えるのは冬休みになる。それも千尋丸が応じればの話だが。
――土日に来れば天野の親族の誰かしらに怪しまれるだろうし。今まで帰省を避けてきたツケがここに……。これからも会ってもらうにはどうしたらいいのかな。うーん、いっそ告白しちゃう? なーんちゃって、絶対断られる――。
ズズズ……
「わっ、わっ!」
地鳴りがして地面が縦に揺れた。サイズの合わない高下駄で無駄に歩く練習をしていた羽菜は、転びそうになりながらもなんとか耐えた。地震は数秒で収まったが、いつもより少し大きかった。
――噴火する……わけないか、この山は火山じゃないし。
「千尋丸、一昨日も地鳴りがあったよね。なんかやな感じだね」
返事がない。羽菜はおやと天狗を見た。
天狗は倒木に腰かけたまま、じいっと羽菜を見つめていた。――その視線に何か嫌な予感がした。
「羽菜」
「な、何……?」
「お前さんと会うのも、ここらでやめておかないとな」
「……は?」
また揺れている。地震だ。……違う、揺れているのは羽菜だけだ。
「そのおばさんとやら、お前さんの周囲を嗅ぎ回りそうだ。ぼろがでないうちに会うのをやめたほうが賢明だ。そうだな、あと一、二回か……」
「えっ……、あの、いったんやめるってことだよね? あたし次は冬休みになると思うんだけど――」
「次?」
千尋丸は未練などみじんも感じさせない口調で言った。
「次なんてない」
頭が揺れた。鈍器で頭を殴られるような衝撃というのはこのことか。
「えっ……と、じゃあ、あたしたち、もう二度と……」
「そうだな。この夏が過ぎれば、二度と会うことはないだろう」
あまりのことに二の句が継げない羽菜のことなどお構いなしに、千尋丸は髭のない顎をするする手のひらでなでながら、涼しい顔で決定事項を突きつけた。
「明日を最後にしようか。早いほうがよかろう。制服姿を拝んで終いだ。ちゃんと着て来い――」
「好き」
千尋丸の目を見て言った。
「好きなの、千尋丸」
気づけば口走っていた。迷いなどなかった。
「好きなの。初対面最悪だったけど優しいところとか、強面だけど表情豊かなところとか、乙女の扱いなってないけど言えば直るところとか、すぐ馬鹿にしたりからかったりしてくるけど本気で嫌がることは絶対にしないところとか、自分勝手だけど実は気遣ってくれてるところとか――」
「いや、いい、もういい」
天狗が腕を振って遮った。
「褒められているのか、けなされているのかわからん」
「……褒めてました……」
千尋丸はしばらく無言だった。羽菜も茹だっていた頭が冷えると自分のしでかしたことに閉口した。首すじや背中を無数の汗が伝い落ちる。
――やっちゃった。だって焦ったんだもん!
羽菜が心の中で墓穴を掘り始めると、ようやく相手が身動きした。千尋丸は無表情で首の後ろをぼりぼり掻くと、
「そうか、わかった」
と、たった一言。それだけだった。
「あの……、ごめんなさい」
「謝ることじゃねえだろ」
「……うん、そうだけど……」
なんとかしなければ。なんとかしなければ。急く心に突き飛ばされた結果、羽菜は烏珠の時と同じ過ちを犯した。
「あたし、花さんの代わりでもいいよ……?」
天狗の気配がざわついた。今にも何かを破壊しそうで、羽菜の体は無意識に逃げを打とうとした。
千尋丸は強者らしくおもむろに立ち上がって翼を広げた。黒々としたくちばしが出るとまったく表情が読めなくなった。
「いったん帰るぞ。支度しろ」
「えっ?」
有無を言わさぬ様子に羽菜はあわてて下駄を脱いで胸に抱き、中の靴下をジーンズのポケットに突っ込んで裸足のままスニーカーを履いた。千尋丸は羽菜を腕の中に収めると同時に翼を使い、瞬時に千年杉の下まで移動すると羽菜を降ろした。
「あの、千尋丸……!」
下駄を放り出し、羽菜はすでに背を向けた天狗の袖に縋ろうとして――やめた。行き場のない両手が胸の前で自然と祈りの形になった。
「ご、ごめ……」
「ちと考える」
それだけ言うと、千尋丸は周囲のすべてをひれ伏さんばかりに大きく羽ばたいた。どんと重い風が来て羽菜は小さく苦痛の悲鳴を上げた。――天狗はもういなかった。
羽菜は呆然とその場に立ち尽くした。
――言わなきゃよかった。言わなきゃよかった。
いつだって自分は判断を間違える。自分で選ぶと後で必ず後悔する。
翌日、羽菜は制服を着て千年杉の裏に行ったが、五時の鐘が鳴っても千尋丸の迎えはなかった。次の日も、その次の日も、そのまた次の日も千尋丸は現れず、羽菜はようやく自分がフラれたことを理解した。
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