【5】天狗の罠

27、甘ったれの苦しみ(1)



 羽菜は親族の魔女たちに疎まれているが、中でもとりわけ天敵と呼べる者がいる。


 八月二日、木々の葉がより色濃く鮮やかになり、草を踏めば草いきれが香り立つ。

 そんな明るい夏の日に、バス停五つ分離れた所に住む遠縁が屋敷を訪ねてきた。羽菜はなが最も嫌いなおばである。


 祖母の妹の娘であるおばは性悪で発言力もあり、おばがいる時は目をつけられぬよう、皆常に気を張っている。当主は祖母だがボスはそのおばだと、羽菜も幼い頃から理解していた。


 昔からおばは魔女の片鱗を見せない羽菜に目をつけていた。成長し羽菜に魔女の才がないことを確信すると、まるで羽菜だけが見えていないかのように振る舞うようになった。


 子どもたちを呼ぶ時に羽菜だけが名を呼ばれない。話をする時も羽菜だけが話しかけられない。ぶつかっても謝られないどころか、おそらく気づいてさえいない。


 そのくせこちらから挨拶をすれば一オクターブは高い猫なで声で挨拶を返し、羽菜が何かおばにとって気にくわないことをすれば、「他の子たちは誰もそんなことやってないよ」と親切ぶって諭すように言う。そしてこう付け加える――「羽菜ちゃんは魔女じゃないからわからないのよね」。



「あたしはあのおばさんに会うと、自分が透明人間になったような気持ちになるの」



 羽菜は千尋丸せんじんまるの前でぽつりぽつり、透明な涙と心をこぼした。


 昨日おばが来たのは梨を届けるためだったが、おばの悪い癖で、前もって連絡せずにやって来たので、折悪しく屋敷には羽菜しかいなかった。


 おばは玄関の敷居に足を引っかけて派手に転んだ。幸い骨折とまではいかないものの、腕や膝の打ち身部分が青あざになった。おばは羽菜が受け止めなかったせいだとなじった。羽菜はそれに謝ることしかできなかった。


 なぜなら羽菜はたしかにおばを受け止めなかったのだ。だがそれは咄嗟に手が出なかったのもあるし、何より相手がおばだと思うと足がすくんで動けなかった。


 おばは怒り狂って帰っていった。一人で車を運転していったくらいにはピンピンしていたが、きっとその足で近所の親戚宅を回り、その日のうちに他の親戚にも電話して、十日後のお盆の頃には全員がこのことを知った状態で本家に集まることになるだろう。真実ではなく、「羽菜がおばを転ばせた」とかそういう内容で。


 共通の敵がいれば女の仲が深まるというのは、羽菜が親族の集まりや学校を通して学んだことだ。天野あまの家では羽菜は敵としてちょうどいい存在で、一番注意しなければいけない時期にちょうどいいネタを提供してしまった。


「おばさんがあたしの陰口を言えば、他の親戚もうなずくの。あたし、それを知ってるの。おばさんはね、あたしが他の魔女を妬んで、陰で呪詛してるって言ってるみたい。だから他の人たちはあたしに『羽菜ちゃんは飛べなくてかわいそうね。でも飛べないのがふつうの人間なんだからね』ってなだめるように言ってきたりする。

 どうしてみんな保身にしか走らないんだろう。『もし自分が同じ立場だったら』とか、『自分の子が同じ目に遭ったら』とか考えないのかな。お母さんや花梨かりんはできるだけ守ってくれるけどそれだって限界があるし、絶対味方になってくれる瑞希みずきおばさんはお盆は本家に寄りつかないし……」


 千尋丸は定位置にしている倒木の上にどっかりと腰を下ろし、天狗らしく団扇うちわがわりのヤツデの葉を惰性で動かしながら、黙って話を聞いている。


「ね、千尋丸。……こんなこと思いたくないんだけどさ、あたし、あの人たちが憎いんだ。本当に呪ってやりたい時があるんだ。そんなふうに思う自分は性格悪いって、わかってるんだけどさあ……」

「呪うのはやめとけ。お前さんの魂の質が落ちる」


 それを聞いて羽菜はしゃくり上げた。悔しさと苦しさが頬を濡らし乾く間がない。脱水症状になりそうだ。


「じゃあ、どうしたらいいの。黙って受け入れてなきゃ、だめ?」


 千尋丸はヤツデを羽菜へと向けると、ぶんと一度大きく振った。ビュオッと突風が来て、濡れた頬が一瞬で乾いた。


「何すんの……ほっぺたがパリパリなんですけど……」

「今夜は化粧水をたっぷりつけて寝ろ」

「なんか天狗からは聞きたくない言葉だな……」


 千尋丸が葉を揺らす。やわらかな風が起こって、腫れぼったくなった目を労るようになでていった。


「すっきりしたか」

「……まあ、多少」


 不思議なことに、もやもやした気持ちがさっきより薄らいでいた。


「ごめん、聞いてもらって。……止められなくて」


 千尋丸はフッと笑って倒木に仰向けに寝そべった。


「現代の人間たちを見ていると、煩悶の中身が昔より小難しくなったように思う。生活水準が向上し生命の保持が楽になったからだろうが、苦しむことに変わりないとは難儀なものだ」


 千尋丸がこちらに片手を伸ばす。「おいで」と言うように。

 羽菜は胸がキュッとなり、いそいそとそばに寄って、今や世界で一番大好きになった強面を見下ろした。


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