26、恋什郎



 薄墨と野分、千里が羽菜たちを取り囲むようにして降り立つと、三名は羽菜の五体満足な姿を見て一様に胸をなで下ろした。


「千尋丸と烏珠が一緒だったか。ならばよかった」


 口ではそう言いながらも、野分はちらちらと千尋丸の顔色を窺っている。


「羽菜、無事か? 怪我してないか?」


 目尻にくっついてしまいそうなほど眉尻を下げた薄墨が駆け寄ってくる。

「うん」羽菜も薄墨に駆け寄ろうとした――が、動けない。肩に回された腕がびくともしない。


「あの……」

「恋什郎、お前が主犯か」


 千尋丸の声が普段より一段と低い。地を這うような声とはこういうものか。薄墨は固まり、野分もごくりと喉仏を動かした。


「カア」


 カラスが鳴いた。羽菜は一番離れた所で微笑んでいる千里を見た。その肩には大きなカラスが乗っていた。

 先ほど羽菜を襲ったあのカラスだとすぐにわかった。ふつうのカラスの倍はあるが、千里の薄い肩に危なげなく腰を落ち着け、黒々とした両目を羽菜の顔の上に固定して置物のように動かない。


「レン」


 千里がカラスに頬ずりした。


 羽菜はにわかに総毛立った。違和感。この違和感の正体は――。


「……恋什郎って、誰が……?」


 千里は口が裂けそうなほどにんまり笑った。


「名乗らなかったっけ? 千里はあだ名だよ。ぼくは自分の名前が嫌いだから、ほとんどの奴らにはあだ名で呼ばせてるんだ。……だってさあ、千尋丸。君だけ人と遊ぼうなんてずるいじゃないか。こんな楽しそうなこと、天狗である我々が見逃すはずがないだろう。心配しなくとも、ちょっとの時間、天狗の里を一緒にお散歩しただけさ。その後はきちんと責任を持って天野の屋敷まで送り届けるつもりだったんだぜ。彼女がここに飛ばされてしまったのはまったくの偶然、不慮の事故というやつで――」


「恋什郎」


 千尋丸が凄むと、千里はカラスの羽を慈しむようになでながら羽菜に頭を下げた。


「羽菜、さっきはすまなかったね。この子はレンと言って、ぼくにとびきり懐いているんだ。あなたがぼくの羽根を持っていたから、嫉妬してしまったんだね」


 カラスが目を伏せた。謝意をひょうしているかのようだ。


「すまなかったでは済まされんぞ、恋什郎」


 烏珠から叱責が飛ぶ。


「危うく御神体に魔女が――」

「いやあ、君がいてくれて良かったと心から思うよ」


 へらへら笑う。烏珠の怒りも千里にはどこ吹く風だ。


「気色悪い笑い方をするな。そも里まで連れて来たことが間違いなのだ。いや、一番問題なのは境界を越えさせたことであって――」


 ずんと千尋丸が前に出て、烏珠は気圧されたように口をつぐんだ。急に開放された羽菜は不意を突かれてよろめいたが、千尋丸の両眼はしっかと烏珠を見据えていた。


「……なんだ千尋丸。お前にも言いたいことは山ほどあるが、今は――」

「おれもだ。だがそれは後だ。こいつを屋敷へ送ってくる」


 千尋丸が親指で羽菜を指し、空を示した。明るいが、青が薄れて日の傾きが感じられる。烏珠は血行不良極まる唇を引き結んで羽菜を睨んだ。


「ちぇーっ、千尋丸が送っていくのかよ。帰りも俺だと思ってたのに!」


 薄墨が口を尖らせ、キンキン声で文句を垂れる。そうするうちに尖らせすぎて、ぽんっ! くちばしが出た。


「あっ! あれ?」


 わたわたとくちばしを押さえる薄墨に、野分は「未熟者め」と呆れ顔をした。


「感情から出現させるのは、天狗として幼い証だ」


 羽菜は思わず吹き出しそうになるのを堪えて千尋丸をチラ見すると、千尋丸はやれやれと目を優しくして前髪を掻き上げた。それがとても様になっていて、ちょっと見惚れた。


 空気がゆるみ穏やかな風が戻ってくる中、烏珠だけは絵に描いたような仏頂面で、もう羽菜を視界に入れることすら我慢がならないとでも言うように踵を返した。


「おや、帰るのかい」


 千里が軽い調子で声をかけるが一瞥もくれず、烏珠は静かに飛び去っていった。

 烏珠がいなくなって緊張の糸が切れたのか、羽菜は急に膝が笑ってふらついた。すると千尋丸より遠くにいたはずの千里がパッと目の前に現れ、抱き留めながら羽菜の耳もとに唇を寄せた。


「くれぐれも天狗にならないように、ね?」


 次の瞬間、千里は千尋丸に着物の襟首を捕まれ、猫の子のようにかるがる宙に吊り下げられていた。


「てめえ、恋什郎。なにやってんだ」

「ちょっと別れの挨拶をしただけじゃないか。それも唇にではなく頬にだよ。狭量な男だなあ」

「今のは千里が悪いぜ。おいらだって千尋丸の手前、気をつけているのに」


 戻したばかりの唇を用心しいしい伸ばして薄墨が言う。千里はニタニタ笑って抵抗なくぶら下がっているが、長い前髪に見え隠れする左の瞳は羽菜を見据えて動かず、笑ってもいなかった。


「あ、羽菜」


 吊るされたまま千里が川を指さした。


「うがい、していいよ」


 羽菜はメロス以上に真っ赤になった。




 帰り道、羽菜は初めて千尋丸にお姫さま抱っこされた。他の天狗たちと別れいつものように空を運ばれている最中だった。先ほど貧血を起こしたことを伝えると、千尋丸は驚いた顔をして、丁寧に羽菜を抱え直したのだ。


 行動は優しかったが、千尋丸は道中まったく口を開かなかった。羽菜は何度か会話を試みた。


「ね、千尋丸。天狗の里って木の上にお家があるんだね。千尋丸の家はめちゃくちゃだって千里が言ってたよ」

「……」

「そうだ、千里が恋什郎だったんだね。最初から千里のほうで教えてよー」

「……」


 相当おかんむりである。結局、屋敷に着くまで二人の間に会話はなかった。


 羽菜が地に足をつけるやいなや、千尋丸はこちらに背を向けた。


「じゃあな」

「ま、待って」


 去ろうとする衣を掴み、羽菜は消え入りそうな声で言った。


「ごめんなさい、約束破って……。来てくれてありがとう」


 千尋丸が怒るのは当然だ。来てもらえていなければ今頃どうなっていたことか。

 千尋丸はしばらく黙っていたが、やがて「はーあ」と大袈裟なため息を吐き、


「また明日な」


 と、大きな手で羽菜の頭をひとなですると、突風を起こして山へと帰っていった。

 羽菜は山の上に広がる青をぼんやり眺めた。


 ――また明日があるってことは、愛想は尽かされていないんだよね……?


 帰省初日以上に濃い一日だった。頭が整理しきれていない。羽菜は右手を胸もとに持って行き、そこにある固い感触を握りしめた。心臓の苦しさを少しでも和らげたかったが、熱は高まるばかりであった。


 ――あーあ、あたし、天狗を好きになっちゃった。


 千里に忠告されたのに。「千尋丸の優しさに天狗になるな」と。



 その日の夕日は盛夏らしく燃えるような激しさで山向こうの空を染め上げ、なかなか眠りにつこうとしなかった。


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