25、千尋丸の笛


「……烏珠さん。あの、ありがとうございました」


「お前を助けたのではなく、御神体をお助け申し上げたのだ。人の分際で天尻山あまじりやまの主に身を投げようなど、厚顔無恥も甚だしい。場所がここでなければそのままにしておいたものを」


 怒っている。すごく怒っている。怒りの湯気が肩から立ち上っているのが見えるかのようだ。


「すみません。でもこれは事故のようなもので……」

「事故? 天野と天狗の境界を越えた時点で故意だと思うが。千尋丸に手引きされたか。いや、あれはこんなくだらん真似はせん。すると誰だ、誰がここまで引き入れた」


 じりじりと烏珠がにじりよる。羽菜は根性で立ち上がって後退したが、かかとが浮いて背筋が冷えた。あと半歩で吐瀉物と同じ所にドボンだった。


「お前はここがどういう場所か理解していない」


 烏珠の体が大きく見える。


「この御神体だけではない。天狗がどんな役割を担っているかをわかっていない。だから迂闊に千尋丸との逢瀬を繰り返す」


 こんなに背が高かったのか。千尋丸より細身だからそう見えなかった。


「しかもお前は飛べないという。なおたちが悪い。ここはお前のようなできそこないが来る所ではない」


 空が削れる。ビロードのような黒が羽菜の視界を遮って――。


「よってこれからお前を天野の屋敷まで吹き飛ばす」


 ――やばいやばい、やばい!


 翼をかいくぐって左に逃れた。依然として背後は川と滝だが前方には森がある。羽菜は逃走経路となり得るそちらに意識を向けないよう注意しながら烏珠と向き合った。


「あの、帰してもらえるのはありがたいんですけど、それって着地の補助もしてもらえるんですよね……?」

「知るか。誰かいたら受け止めてもらえ」

「ち、近くまで連れて行ってもらえたり……?」

「不法侵入者になにゆえそこまで親切にしてやらねばならん」

「でも……」


 これはちょっと言おうかどうしようか迷ったが――ええい、ままよ!


「あ、あたしは花さんと顔が似ているらしいのに、それを吹き飛ばすっていうのはどうなのかなー、なんて……」

「貴様、今なんと言った」


 瞬間冷凍されたかと思うほど周囲の気温が一気に下がった。

 寒い。怖い。歯がガチガチ鳴って止まらない。しくじった、思いきり相手の地雷を踏み抜いた。


 烏珠の形良い唇から冷気が吐き出された。


「顔が似ている? ハンッ、貴様と花は似ても似つかぬわ。まず貴様には品性がない。内側からあふれ出すような生命の輝きも、ふいに見せる儚さもない。この食うに困らぬ時代にヒョロッヒョロのその体、どうせ若い娘にありがちな『痩せれば可愛くなれる』とかいう思い違いの産物だろう。馬鹿め、例えるなら貴様は芋だ。山芋だ。朝露を受けて控えめに笑う百合の花と、土から引き抜かれたばかりの山芋。どうだ、理解しやすかろう。それをよくもまあ、ぬけぬけと。千尋丸が相当甘やかしたらしいが、妙な幻想は棄てたほうがいい」


「その山芋って、自然薯じねんじょではないですよね……」

「死にたいのか」

「すいませんでした」


 長芋だった。


 烏珠は片手を額に当ててやれやれと首を振った。


「子孫がこれじゃ、もみじも草葉の陰で泣いておろう」


 羽菜はあっと声を上げた。


「椛! やっぱり椛ですよね! 初代さまのお名前!」

「……なんだ、まさか思い出せないでおったのか」

「まさか!」


 羽菜は前のめりになって説明した。


「千里がさっき、初代さまのことをみつ、、って呼んだから……」


 烏珠の顔色が変わった。天狗は堕天使みたいに翼を広げてその場に浮いた。


「貴様のためだ。二度とこの山に近づくな」


 翼がバサリ、バサリとくうを打つ。そのたびに近くの岩がピシッと鳴った。アニメでしか見たことのない鎌鼬かまいたち。頑強な岩の表面に無数の切傷がつく。


 ――やばい。なんか怒らせた。これは本当にやばい。


 足が凍りついたように動かない。やけに滝の音が体に響くと思ったら、自分の血潮が耳奥で盛大に騒いでいる音だった。


 羽菜は覚束ない動作で胸もとを探った。今度こそ紐を掴んで小さな笛を引っ張りだし、ぶれる指先でなんとか唇まで持っていく。


 烏珠が目を見開いた。


「貴様、それは――」


 シューッと息が抜けていく音がした。それだけだった。羽菜は焦ってもう一度笛を咥え――ぽろりと落とした。


 ボウボウと風が吹き荒れ、周囲の木々がメトロノームみたいに全身を振る。烏珠の鎌鼬は容易く飲み込まれ、烏珠自身もたたらを踏んだ。羽菜は風に体を押され、かろうじて踏みとどまっていた半歩を後ろに踏み外した。


 どんと眼前に出現したるは、黒い巨躯。太く硬い腕が羽菜の背中を回り、がっちりと抱いて引き寄せた。



「よくおれを呼んだ」



 回転扉を抜けた直後のようにピタリと風が吹きやんだ。雲を突くような長身に抱き込まれ、羽菜は森林と太陽のにおいのする腹に顔を埋めてすすり泣いた。


「千尋丸、いったいどういう料簡だ。恋什郎と通じて何を――」

「おれもお前に聞きたいことがある。お前、なぜここにいた」


 烏珠は目を血走らせて千尋丸を睨んだがそれだけである。千尋丸はもう一度問うた。


「烏珠よ、ここで何を考えていた」

「別に何も」


 そう言う烏珠の声がかすかに震えていることに羽菜は気づいた。


「お前はちと、ここに来すぎだ。お前をあまり近づかせるなと、自然坊から言われている」

「なんだと?」

「最近よく来ているだろう。おれは来るなとは言わん。ただもう少し控えろ。……よからぬことを考えているのではないかと疑われるぞ」


 烏珠の白い面にカッと朱が差した。


「よからぬことだと! 俺は最善の方法を考えているのだ。ずっとずっと考えてきたのだ! それに比べ、お前はなんだ! これまで何もしてこなかったくせに、押し迫った今になって、大天狗さまに何を吹き込んでいる!」

「お前は行き止まりに当たって久しいだろう。新たな犠牲を産むことは、お山を守ることにはならん。おれはそう考える。何より彼女が悲しむ」


 彼女、、が誰を指すのか――羽菜はそっと千尋丸を見上げた。羽菜に対する時とは違う含みあるまなざしに、今日働かせすぎの心臓がキリキリ痛んだ。


「彼女が悲しむだと……」


 烏珠がぶるぶる全身を震わせた。


「彼女が悲しむだと! どの口が……!」


 その時、おおい、おおいと上空からキンキン声が降ってきた。


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