24、御神体
小一時間ほど見て回っただろうか。途中、他の天狗と出くわすこともあったが、野分のまじないの効果は抜群で、どの天狗も羽菜には気づかず、羽菜をかばうように浮かぶ三人と軽口を交わして飛び去って行った。
だんだん建物が減り、周囲が寂しくなってきた。同じ杉の森のはずなのに空気が重く感じて鳥肌が立つ。直感が「この先は良くない」と言っている。羽菜が天狗たちに引き返すよう頼もうと口を開いたちょうどその時、薄墨が高い枝の上で停止した。
「ここまでかな」
「ああ、そうだな。引き返そうか」
野分が千里に視線を送った。
――なんだろう、この感じ。
羽菜の側からは千里の顔半分を覆っている黒髪しか見えず、彼が今どんな表情をしているかわからなかったが、なぜだか胸騒ぎがした。
視線を感じてか、くるりと千里がこちらを向いた。
「この先には御神体があるんだよ。あなたにとってあまり良い場所とは言えない」
屹立する杉の木々は花粉症なら悲鳴もののありきたりな山の風景だ。それでも本能的にわかる。人が安易に入って良い場所ではない。
引き返そう。羽菜が体の向きを変えようとした刹那、何か黒いものが視界の隅に映り込んだ。
それは天狗たちが動くよりも羽菜が避けるよりも早く羽菜の左手にぶつかった。
漆黒のそれはバサバサと派手に羽ばたいて羽菜を打った。一瞬トンビと見紛うほどの大カラスだった。
「レン!」
千里が怒声を上げた。そんな大声も出せたのか――なんてどうでもいいことを思う。
すべてがスローモーションだ。離れるカラスの動きが見えた。くちばしに何かをくわえている。黒い何か。自分の左手を見る――ない。千里の羽根がない。
――やっばい!
理解するより早く手を伸ばしていた。
カラスのくちばしからはみ出る羽根の先をなんとか掴んだ。絶対に取り返す。落ちる自分を薄墨あたりが受け止めてくれればいいが、そうならなかった場合の悲惨さなんて考えたくもない。
ギャア、とカラスが怒りに眼をギラギラさせて威嚇した。その拍子に口が開き、しめたと羽根を取り戻したまではよかったが、突如突風が起こって羽菜の体を木よりも高い所へ押し上げた。
ぐるぐるとフィギュアスケーターも真っ青なくらい回転しながら、羽菜は必死に千里の羽根を握りしめ、地に戻るよう強く願った。羽根はちぎれかかってボロボロ、今にも折れてなくなりそうだ。懇願むなしく羽菜は花梨のステッキの時以上に目を回しながら、わけのわからぬほうへ吹っ飛ばされていった。
――千尋丸、千尋丸!
声が、悲鳴が自分の喉から出ているのかさえわからない。死に物狂いで風に抗い、重い右手で胸もとを探る。ティーシャツの下に固い感触を確かめ、紐を辿って引っ張りあげる――無理だ、手を固定しおくことで精いっぱいだ!
そうこうしているうちに、どこかで地鳴りのような音を聞いた気がした。それは徐々に大きくなり、言い知れぬ恐怖を感じた羽菜は、風にいたぶられて涙の膜が張った目をなんとかこじ開けた。
そこは巨大な滝の真上だった。
いつかテレビで観た那智の滝を十倍にしたような迫力で、轟々と音を立てている。下に向かって太い虹がかかり、滝壺は真っ白な水煙に覆われ何も見えない。冷気が晩秋の朝のように足もとから羽菜を冷やした。
――御神体だ。この滝がそうなんだ。
気づけば回転は止まり、痺れるような畏怖に呼吸を忘れ、宙に浮かんだまま呆然と瀑布を見下ろしていた――が、それは実際の時間にすれば二秒か三秒か。
急降下。我に返った時にはくしゃくしゃの羽根は手を離れて青空へと吸い込まれ、反対に羽菜は目下の虹を突き破ろうとしていた。
甲高い音が鼓膜を打つ。遅れてそれが自分の悲鳴だと理解した。
誰か助けに来てくれないだろうか。薄墨、野分、この際千里でも構わない。滝壺に叩きつけられる前に、誰か受け止めてはくれないだろうか。抱き留め方に贅沢なんて言わない。もう「天狗はモテない」なんて思わない。千尋丸、千尋丸! 彼は今どこにいるのだろう。彼の言うことをきちんと聞いていれば、今こんなことにはならなかったのに。
頭はかつてないほどの速さで回っていたが、動かぬ体は
羽菜は静かに瞼を下ろした。マイナスイオンを全身に浴びながら「痛くありませんように」と願う。
息が詰まるような衝撃―――歯を食い縛っていたので舌は噛まなかったが何かにぶつかった。後頭部を大きなものに押さえ込まれ、真正面から強かに額を打つ。体を引っこ抜かれるように上に強く引かれ、「うっぐぅ!」とおよそ出したことのない声が出た。
痛みに呻きはしたものの、全身が包み込まれる感覚に羽菜は心の底から安堵した。水を纏うような着物の匂いに、大きな翼が空気を打つ音。間一髪だった。
ひんやりとした固い感触を尻の下に感じ、どこかに降ろされたのだとわかった。横に倒れ込み胎児のようにうずくまる。羽菜は震えでままならない呼吸を落ち着かせるため、肺を引き攣らせながら何度も何度も深呼吸した。すると今度は耳に膜がかかったように音が遠退いた。前が見えない。途端に吐き気がこみ上げてきて、羽菜は下げた頭を上げられなくなった。
――やばい、貧血だ。
すべての感覚が遠い。目の前が暗いのか明るいのかもわからない。とりあえずこの吐き気をなんとかしたい。死にかけのカエルみたいに這いつくばって震えていると、そっと背に温かな手が触れた。
「もう少し左だ」
言われるがまま左に寄った。そこで我慢できずに胃の中身と不安と恥とをぶちまける。女子高生が人前で嘔吐。忘れられない黒歴史の誕生だ。
耳を塞ぎたくなるような濁音を出し終えると次第にすっきりしてきて、視界もずいぶんクリアになった。眼下には今の恥態がすべて幻だったかのように清く透明な水がゆらゆら揺れている。
「魚の餌やりは済んだか」
――……ああー……。
背に突き刺さる冷たい声、顔の美醜なんて気にせずひっぱたいてやりたくなるような皮肉。これ以上ないほど最悪な再会だ。
出し切っても顔に血の気が戻らないまま、羽菜はふらふらと背後を振り返った。嫌味天狗は二メートルほど後ろに立っていた。
「……烏珠さん。あの、ありがとうございました」
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