22、里案内(1)



「ちなみに烏珠彦の唇が紫色をしているのは、その時噛みしめすぎたからだとか」

「嘘吐け。あれは生まれつきだ」


 千里せんりのボケにすかさず野分のわきが突っ込んだ。


「……どうして千尋丸は……。好きだったんだろ、花のこと」


 こぼれた薄墨のつぶやきは羽菜はなの疑問でもあり、きっと当時の烏珠のものでもあっただろう。


 千里は茶で喉を潤し、話を終わりに導いた。


「さてね。だが彼女の遺言通り、最後に言葉を交わしたのは千尋丸だった。囚われの烏珠彦は会わずじまいさ。彼女がどちらを好いていたのか、それは当人たちにしかわからない」


 野分が問う。


「私は花の顔を間近で見たことがないのだが、そんなにこの娘と似ているのか」

「似ているね。瓜二つってくらい」

「千尋丸は彼女の代わりを見つけたってことか……」


 ともすれば重くなりそうな雰囲気だったが、薄墨がばりんと何枚目かわからぬ煎餅音を響かせた。


「そんなにそっくりならさ、なんで烏珠は、自分もこの子に会いに行かないんだろう。千尋丸に取られちゃってもいいのかな」


 千里が笑った。


「そりゃ烏珠彦のほうが、理性ってもんがあるからさ。人との恋はつらいだけだと身に染みてわかっている。千尋丸は今を楽しむ奴だから、そういう面倒くさい感情はその時になってから考えるんだよ」


 それに、と千里の声が芯を持つ。


「彼女はあの花ではない。別人だ」


「生まれ変わりっていう可能性は?」

「ない。花の魂はお山に吸収された。輪廻転生から外されている」

「千尋丸はそれを――」

「無論、理解しているだろうよ。だがそれと彼女を代わりにすることは別なのだよ」


 羽菜はいい加減目を開けたいと思った。屋敷に戻って一人になりたかった。


 ――他の人の代わりにされていたからなんだって言うの。あたしたちは友だちでもないし、先生と生徒っていうのともちょっと違う気がするし……そう、利害関係だから。あたしは飛べるようになれるならそれでじゅうぶんだし、天狗と過ごすなんてふつうじゃあり得ない体験でしょ。飛び抜けてすごい夏なんだから。すっごいことなんだから。


 だから今胸が痛いのは花を思ってのことだ。彼女は烏珠を好いていたに違いない。烏珠がお山に入ることを知って身代わりになろうと思ったのだ。なんてかわいそうなんだろう。烏珠だってかわいそうだ。それに千尋丸もたぶんお山のために断れなくて――あたしを代わりにしたいって、本気で思っているのかな?


「そろそろ起こそうか」


 千里が言った。羽菜の心を読んだかのようなタイミングである。「おいらが」と薄墨が素早く立った。


「羽菜、大丈夫か? まだ具合悪いか?」


 薄墨は心底気遣わしげで、羽菜はその温かな声に泣きたくなった。


「ううん……大丈夫」


 考え事をしていたお陰で努力しなくても寝ぼけたような声が出た。口の中がカラカラだった。


「ごめんなさい。ありがとうございました」

「おいら、かっ飛ばして連れてきちゃったからさあ。それのせいなんだよ。ごめんな」


 薄墨が叱られた犬のようにしょんぼりうなだれている。一時胸の痛みを忘れ、羽菜は微笑んだ。


「羽菜」


 千里は頬杖をついて羽菜の湯飲みを勧めるように持ち上げた。


「良くなったなら、少し里を見て回るかい? もちろん堂々と、というわけにはいかないけどね」


 羽菜はもう帰りたかったが、帰ったところで話し相手もいなければ、誰かに話せる内容でもない。逡巡したが断る理由が見つからず、首を縦に振って湯飲みを受け取った。湯気の消えたお茶は飲みやすかった。


 外に出ると、葉の隙間から黄金色のシャワーが降り注いでいた。


 ――なんて綺麗……。


 地面が遠いことも忘れてふらふらそちらに近寄ろうとすると、片腕をぐいと後ろに強く引かれた。野分の平坦な眉が一本に繋がりそうなほどに寄っていた。


「これだけ危なっかしいなら、千尋丸は案外面倒見がいいのかもしれんな。――では、今から君にちょっとしたまじないを施す。他の奴らに見つかりにくくするものだ」


 野分が筆を持って羽菜の前に立つ。ファンタジーによくある〈人間の匂いを消す〉とかそういう類いのものだろうか。

 千里がにこりと不気味に笑んだ。


「なあに、心配いらないよ。天狗の目から隠されるだけだから。あなたは今から透明人間になるんだよ」

「透明人間……」


 羽菜は不安げに目の前の天狗を見上げた。野分は墨にも水にもつけていない乾いた筆で羽菜のおでこにするすると何かを書いた。背中を指でスーッとなぞられた時みたいな感覚に身震いしてぎゅっと目を瞑れば、隣で見ていた薄墨に笑われた。

 もういいぞ、野分に言われ瞼を上げて三人を見る。


「どんな感じになってるんですか?」


 んー、と薄墨はぽりぽり頬を掻いた。


「透明人間ってほどじゃないなあ。視えてはいるんだけど、感じづらいって言うか」

「私たちはまじないがかかるところを見ていたから、君が視えるんだ。今ここにいない者には姿はもちろん、気配すら感じないだろう。それでも千尋丸と烏珠に出くわすのはなんとしても避けたいところだな。あいつらはおそらく気づくし、気づかれればまじないは解ける」


 野分の説明を聞きながら、そういうことを言うと出くわしそうだなと羽菜は思った。


 ――気づいてもらいたいなあ……なんちゃって。烏珠はだめだけど。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る