18、天狗のお迎え(2)


 羽菜の歯切れ良い返事に二人の天狗は喜んだ。片方はまた「イヤッホーウ!」だし、もう片方は羽菜の気が変わらぬうちにとさくさく準備をし始めた。


「なんでも君は飛べない魔女らしいから、乗り物に乗ってもらうことにした」


 野分は着物の衿の隙間に手を差し込むと、一枚の和紙を取り出した。四つに折りたたまれたそれを広げ、トントンと二回、中の絵らしきものを中指で叩く。たちまちそこから黒い煙が水に広がる墨汁のように立ち上り、みるみるうちに本物の牛車の形を成した。全体が余すところなく黒い。黒塗りの車ならぬ黒塗りの牛車。でも牛は出てこなかった。


ながえは私が押さえているから、安心して後ろから乗りたまえ」


 車の前に伸びている長い柄のような部分を持って野分が言う。前に傾いていた車体が地面と水平になりたしかに乗りやすくなったが、床面が高いことには変わりない。

 踏み台はないものか――羽菜が視線を彷徨わせると、


「ほら、靴脱いで足を乗せろよ」


 と、薄墨が羽菜と牛車の間に跪いて手を差し伸べてきた。見た目はさておき、王子さまの仕草そのものだった。


 ――あたし、Tシャツにジーンズじゃない方がよかったかな。


 羽菜はむずがゆさに顔をほころばせ、右足だけスニーカーを脱いで片手に持つと、その足を薄墨の太ももに乗せ、差し出された手をとった。


「ん? ちがうちがう」


 薄墨は手を離し、羽菜の足の裏を掴んで握った。


「前のめりになって。大丈夫。……よっし、上げるよー」

「えっ?」

「ほいさ!」


 ポーン! バレーボールみたいに投げられた。羽菜は車内でゴロンゴロンと前転し、車を通り抜けるすれすれの所で野分に受け止められてばったり倒れた。


「悪い! 力入れすぎた!」


 薄墨が後ろでおろおろ、翼をバサバサ鳴らしている。あちこち痛む体をなんとか起こした羽菜に浮かんだ思いは一つ。


 ――天狗って、どいつもこいつも女子にモテないと思う!


 車内は畳敷きで二畳あったが、窓がなく四方八方すべてが真っ黒なので圧迫感が凄まじい。墨の匂いがプンプンするので、紙に描かれていたあれは墨絵だろうと予想する。自分も黒くなっていやしないかと体中を確認したが、色移りはないようでほっとした。クーラーがついていないのに少しひんやりしているのだけは良かった。

 前後のすだれが下ろされる。ただでさえ暗い部屋が真っ暗闇になり、羽菜は焦った。


「あの、すみません、明かりは――」

「少しの間辛抱してくれ」


 野分の声だ。外でごそごそ動く気配があり、車体が揺れる。おそらく天井の上に登っている。「準備できたぜ、野分」後ろにいたはずの薄墨の声が前から聞こえた。


 羽菜は前の簾の端を少しだけめくって、片目で外を窺い見た。目前に灰色がかった黒い翼が広がっている。


 ――牛はなし……? あっ、もしかして!


「悠長に外なんか覗いていないで、そこの手形にしっかり掴まっていろ」

「手形?」


 野分の声に目を上下左右キョロキョロさせて、右の側面に手を引っかけられそうな所を発見した。


「いいかー?」


 薄墨が待ちきれないように聞いた。


「あっ、はい!」


 ブォンと翼が大きく羽ばたいた。手形に指を引っかけていたので飛ばされずに済んだが、これがなければ弾丸よろしく後ろから外へ飛び出してしまうところであった。もし空の上で落とされたら――さあっと青ざめ、羽菜は硬い表情で指に力を込めた。


「じゃ、いっくぞー!」


 薄墨が元気いっぱいにもう一度羽ばたくと、アトラクションが動く時のような、ふわっと浮くような感覚がした。振動はあまり伝わってこない。おそらく上の野分が支えているのだろう。牛車ならぬ、天狗車の出発である。


 この安全面に不安しかなかった車は、空に上がってしまえば快適だった。揺れないし、涼しい。習字の授業中みたいな墨臭さにもすぐ慣れた。

 覚悟していた突風も最初のあれだけだったので拍子抜けした。そよ風がおでこをくすぐり、呼吸も楽だ。かなりのスピードが出ているように見えるのに。


 少しの間なら簾を上げてもいいと言われたので、羽菜は半分ほどまくり上げて外の景色を楽しんだ。景色と言っても緑と青しか見えてこないが、夢でもこんな体験はしたことがない。――もしやこれが夢なのか。否。羽菜にこんな愉快な想像力はない。


「簾を下ろせ」


 野分の指示に従い、羽菜は大人しく真っ暗な車内に引っ込んだ。

 ぐぉんと耳に膜がかかった。何度かつばを飲んでも治らないので、高度が上がったのだろうか。それとも――。


「羽菜、顔を出してみろ。これが天狗の里だ」


 野分に促されて羽菜が再び外を覗くと、そこにはまるでファンタジー映画のセットのような光景が広がっていた。


 ぽつりぽつりと立つ家々は高床式である――これを高床式と呼んでもよいのなら。屹立する杉の木を柱がわりにして、枝の途中や上のほうに家がある。日本家屋、コテージ風、茅葺き屋根、赤煉瓦の家――これらが危なげなく木々の枝に乗っている。建築家や科学者が見たら卒倒するだろう。


 ――カラスの巣みたい。あ、烏天狗か。


 風が鳴る。車はまるでサンタクロースの雪車そりのようにスムーズな走りで山頂を目指していった。


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