17、天狗のお迎え(1)



「おっほ! マジに一人きりだ。千尋丸の奴、さすがに大天狗さまの呼び出しは無視できなかったか」


 若い男の声だ。声の高さというか、話し方が頭に響く。頭上から――つまり杉の木の枝からという時点でもう人ではない。烏珠はもっとクールな美声だったので、間違いなく新手の天狗だ。明日千尋丸に会ったら、若者言葉として〈フラグ〉と〈フラグ回収〉を教えてあげよう。


 羽菜がその場に凍りついて動けないでいると、さらにもう一人、正反対の落ち着いた声が先の天狗を低く諫めた。


「声を落とせ、薄墨うすずみ。お前の声はキンキン響くから小声で話せと、いったい何十年言い続ければ覚えてくれるんだ」

「ごめんよう、野分のわき。これでも抑えているんだよ、おいら」


 ――二人もいる。逃げなきゃ!


 動かぬ足を叱咤してなんとか一歩出そうとしたところで、何かがパラパラと頭や肩に降り注いだ。「いやあ!」軽く恐慌に陥ってめちゃくちゃに払い落とすと、「ごめん、杉の小枝だよ。虫じゃないから大丈夫だよ」と、今度は前から声がした。――退路を塞がれた。


 びくびくしながらそちらに目を向ける。照り輝く日向の少し手前の影に、二人の烏天狗が立っていた。


「はじめまして、天野羽菜さん。私は野分進のわきしん。皆には野分と呼ばれている」


 右の茶色い着物の天狗がしゃべった。高くも低くもない声だ。肉厚な一重瞼が重そうだということ以外、特筆すべき点のない男である。スーツを着て満員電車に乗っていても違和感がなさそうというのが最初に浮かんだ感想だ。


「おいらは薄墨! 本当は薄墨丸うすずみまるって言うんだけど、長いだろ? だから薄墨! よろしくな!」


 口もとに手を当ててはいるが、キンキン声のまま薄墨が言う。千尋丸や野分に比べずっと若い印象だ。目は飛び出し気味でくっきりとした二重、線を引いたみたいな涙袋。背は羽菜より少し高く、百六十センチちょっとだろうか。翼も他の天狗のように黒々としておらず、水を入れすぎた墨のような色である。


「何も言わないな、この娘。視えてはいるはずなのだが……」

「野分、おいら我慢できないよ。魔女と話すの、初めてなんだよ」


 目をキラキラさせながらこちらへ近づこうとする薄墨を、羽菜は片手を挙げて押し止めた。それに従いぴたっと足を止めた相手にほっとする。ほっとしたついでにうっかり口を開いてしまった。


「あの、あたし、天野じゃないです」


 おお、と目の前の天狗たちが喜んだ。薄墨がぱっと笑顔を咲かせ、また羽菜に近づこうとする。


「来ないで」

「お前が羽菜だろう?」

「そうだけど、天野じゃないです。杉浦すぎうらです。あとお前って言わないで」

「そっかそっか、じゃあ羽菜、これからちっと出かけるぞ」

「――はい?」


 怪訝な顔をする羽菜に薄墨は一生懸命説明した。


千里せんりが、今なら千尋丸がいないから君を攫ってこられるって言うんだよ。だからおいらと野分は君を迎えに来たんだよ」


 ――千里って誰だ。いやそこじゃない。攫うって言った、こいつ攫うって言った!


「おいおい、馬鹿か」


 野分が焦ったように口を挟んだ。


「いきなりそんなことを言ったら警戒されるだろう」


 もう遅い。羽菜はじりじりと後ろへ下がり、今最も頼りになりそうな千年杉に背中を預けた。薄墨が大あわてで両手をぶんぶん振り回した。


「誘拐しようってわけじゃないんだ! ちゃんと君の気持ちを聞いてから連れて行くよ、当然だろ! おいらたち、君に天狗の里を見せてやろうと思って来たんだ。どうだ、見てみたくないか? 見たいだろ?」


 薄墨は尾を振る柴犬のような目で羽菜を見ている。誓って害意はありませんと全力で訴えている。


 ――天狗の里。見たい。いやいや、だめだめ、だめだって。……でも……。


「どうしてですか? あたし千尋丸に、他の天狗には気をつけろって言われてるんです」

「千尋丸め!」


 薄墨がぷんぷん怒って地団太を踏んだ。


「やっぱり独り占めする気だな!」

「薄墨、少し黙れ。お前の発言はいちいち怪しい。私が彼女なら、絶対について行こうとは思わんぞ」


 毎度野分が代弁してくれるので羽菜が思わずくすっとなると、野分もふっと頬をゆるめた。


「最近、大天狗さまが体調を崩されていてな。これがどういうことか、君にわかるか」


 羽菜は首を振った。わかるわけがない。


「おいらたち若天狗も羽を伸ばせるサマータイムってやつさ!」


 イヤッホーウ! 薄墨がばんざいして杉の枝に飛び上がった。「薄墨!」野分が精一杯声を落として叱りつけた。


「いい加減にしろ、他の魔女に見つかるだろうが!」


 はっとした薄墨は「ごめん……」としょんぼり頭と翼を垂れて戻ってきた。


 ――今日、他に誰もいないことは黙っておこう。


 野分はこほんと一つ咳払いした。


「薄墨はまだ八十五歳なんだ。落ち着きがないのは許してやってくれ。まあ……今あいつが言った通りだ。普段、私たちは魔女との関わりを禁じられている。ところが千尋丸が君と毎日楽しくやっているという噂が仲間内に広まりつつある。

 私たちは登山客をからかったりもするが、このところ人があまりに多すぎて食傷気味なんだ。その点、君はとてもいい。君は天野の魔女だから、言ってみれば我らに近しい者だ。無論、危害は加えないし、夕方にはきちんとここへ送り届けよう。どうだろう、空いてしまったこの時間を天狗の里で過ごす気はないか?」


 羽菜は考えた。口約束で何の保証もないこの話、漫画や小説の世界だったら明らかに罠だ。小瓶に入った怪しい液体を飲み干したら体が縮んだり、出された物を食べたら豚や石炭に変えられる可能性だってある。極めて危険だ。危険で――なんだかとってもゾクゾクする。


 ――最近、自分が自分でなくなっている気がする。いったい誰の影響かな。


 羽菜が揺れていることがわかったのか、野分が駄目押しのように言葉を続けた。


「千尋丸から笛を渡されただろう。危険を感じたら迷わずそれを吹いてもらって構わない」


 ばれている。Tシャツの下、鳩尾付近に当たる感触を意識した。


 ――たしかにこれがあるならいいかもしれない。千尋丸にとっては不本意だろうけど。


 だめだ、危険だと内なる声がする。けれど同じ場所から仄暗い喜びが湧き上がってきて、その声を飲み込もうとする。羽菜はその喜びに逆らえない。逆らいたくない。

 だって今までにない、忘れられない夏になる予感がするのだ。胸がドキドキするほどの好奇心をどうやって抑えられる?


「わかっ――」


 びゅうと風が吹いた。髪が顔にかかって視界が、口が塞がれる。まるで花梨のステッキで飛んだあの日のようだ。苛立ちながら手で髪を払う。この世界は見えない魔法に満ち満ちている。これはただの風じゃない。わかっているくせにと自嘲した。


 つまり自分は、他の魔女たちを出し抜くことに優越感を感じているのだ。もっともっとこの気持ちよさを味わいたいのだ。今まで寂しい思いをしてきた分、少しくらい良いではないか。


 ――大丈夫、何かあったら必ず千尋丸が来てくれる。それにほら、目の前の二人のゆるい雰囲気。これが何か、あたしは知ってるんだから。


 羽菜はこちらの機嫌を窺うようにチラチラ見てくる天狗たちに見せつけるように、殊更ゆっくり、大きく首を縦に振った。


 ――誰かさんとおんなじで、絶対、こいつらも暇なだけ!


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