16、千尋丸の忠告



「おい、もういいか」


 回想終了。羽菜はぶすくれて声の主を睨めつけた。


「千尋丸さ、本気で教える気ないよね。お忘れのようだけど、あたしは人なんです。背中に翼なんて無理に決まってる」


 天狗は心底呆れたとでも言うように鼻を鳴らした。


「馬鹿を言え。そのまんまの意味で捉える奴があるか。そういう意識で魔力を開放しろって言ってんだ。翼を広げりゃ胸が開く、胸が開けば魔力がすんなり体を巡る」

「最初からそこを説明してもらいたかった!」


 急いでボールを拾ってくるが、千尋丸は「シッ」と言って羽菜に待ったをかけた。耳をすますと、どこか遠くでカラスの鳴き声がする。


「悪い、今日はここまでだ。ちょいと野暮用ができた。行かなきゃなんねえ」


 え、と羽菜はスマホの時計を確認した。十三時前。まだ始まってから三十分も経っていない。


「呼び出し? ならあたしはもう少し一人で練習するよ」

「一人では帰れないだろ。ほれ、掴まれ」

「用事が終わったら迎えにきてもらえない? そしたら……」

「いいから乗れって言ってんだ」


 ――そんなに大事な用事なの? あたしを飛ばせることよりも?


 心では文句をたらたらこぼしながらも、かがんだ千尋丸の太い首に腕を回した。


 ――汗、全然かいてない。人じゃないんだなあ。今さらだけど。


「上がるぞ」


 一声あってから空へと舞い上がる。羽菜も慣れたもので、眼下に縮む木々を平然と眺められるようになった。初日同様たくましい腕に尻を乗せたお子ちゃま抱っこだが、今ではお姫さま抱っこされるほうが恥ずかしいと思う。


「ねえ、天野の飛行練習場に降ろしてよ」

「おれの見ていない所ではやるな。怪我をしても助けてやれん」


 この強面天狗は意外と過保護だ。良いふうに言えばツンデレ、ギャップ萌えというやつだ。人によってはハマるだろう――千尋丸ってモテるのかな?


 いつも通り屋敷の千年杉の下に降ろされる。去り際、千尋丸は怖い顔をさらに怖くして言った。


「ちょいと注意しておくことがある。いいか、これはお前がおれの言うことをきちんと聞いていれば起こり得んことだ。もし――」

「お前って言わないで」


 羽菜は面と向かってお前と言われるのが嫌いだ。だって失礼だ。そのことはすでに千尋丸に伝えてあるのだが、この齢五六百の天狗ときたら、「〈お前〉とはもとは〈御前おんまえ〉と言って、相手を敬う意味が――」と言い返してきたので、「現代では失礼だからお前って言わないで」と羽菜のほうも一歩も譲らず、最終的に〈お前さん〉で手を打った。


 強面天狗は顔の真ん中にしわを集めて面倒くさそうな顔をしたが、急いでいるからか、すぐに折れた。


「羽菜。いいか、万が一おれ以外の天狗と遭遇しても相手にするな。一言も口を利かず、急いで屋敷に入るんだ。烏珠は言わずもがな、特に恋什郎れんじゅうろうには気をつけろ」

「えっ、何じゅうろう? なに、やばい奴なの?」

「恋什郎。まあな。……おい、目を輝かすな、興味を持つな。ったく、お前さんはおれに慣れちまったせいでわからねえだろうが、本来天狗ってのは、人にとっては畏怖の対象なんだ。今のおれとお前さんは特殊だってことを肝に銘じておけ。他の天狗のことなんて考えるなよ。羽菜にはおれ一人だけでじゅうぶんだ」


 ――う、うわああー!


 千尋丸はよくこういう、こちらが勘違いするような物言いをする。天然タラシ。女の敵め!


 どぎまぎして返事ができないのを了承と捉えたのか、羽菜の反応なんて最初からどうでもいいのか――千尋丸は懐から赤い紐を引っ張りだして羽菜の手に握らせた。


「何これ?」

「笛だ」


 紐の先に木でできた笛がついていた。体育の授業などで使う見慣れたものより細長く、すべすべとして握り心地が良い。


「首にかけ、肌身離さず持っておけ。何かあればそれを吹いておれを呼べ。わかったな」

「ごめん、わかってない。防犯ブザーのほうがよくない? あたしあんまり肺活量ないし、そんなピンチの時に笛を吹く余裕があるとも思えないよ」

「その笛はおれにしか聞こえない。吹けば必ずおれに届くし、そうすればすぐに飛んでいく。いいな、手放すなよ」


 本当に時間がないのだろう、千尋丸は「わかったな」と再度念押しすると、羽菜の頭をぽんと一つ叩いてからラグビーボールを片手で掴み、翼を広げて派手に飛び去った。――悔しいが、ちょっとときめいた。


 羽菜は笛を首から下げてピンクのTシャツの中にしまい込んだ。


「……暇になっちゃった」


 今日は誰も屋敷にいない。花梨かりんは所属している軽音楽部の活動日、六花りっかは受験生なので塾に行っている。風花おばは仕事、祖母は町内の集まりに出かけ、夕方まで帰ってこない。


 ジワジワ、ミンミン、蝉がうるさい。


 中のキャミソールは汗で湿っている。今日も全国猛暑日だと朝の天気予報で言っていた。なんでも暦で言うと〈二十四節気にじゅうしせっき〉の〈大暑たいしょ〉という時季らしい。夏の一番暑い頃だと言っていたが、それはおかしい。だって八月半ばのほうが暑いではないか。羽菜がテレビに向かってそう文句を言うと、「その頃は暦の上ではもう秋なんだよ」と、一緒に朝食をとっていた六花先生からご教示いただいた。ああ、苦手だ。祖母と住んでいるからか、彼女はときどきお年寄りみたいなことを言う。


 ――大人しく戻って宿題するかあ。全然進んでないのは英G、古文……古文ってもしかして千尋丸もできるんじゃない? 今日は古文をやって、わからないところがあったら明日聞いてみようかな。……また甘ったれって言われそうだけど。


 千尋丸はよく羽菜のことを「甘ったれ」と言う。「相手に判断を委ねるな」とか、「自分で先を見据えて行動しろ」とか。言っていることは正しいが、それをすれば羽菜が自分のもとに来なくなるということはわかっているのだろうか。


 とにかく屋敷に入ろう。だが道は空間ごとギラついている。絶対焼かれる。どこを通っても紫外線から逃れられない。

 覚悟を決めて木陰から炎天下に出ようとした時、真上からキンと頓狂な声が降ってきた。


「おっほ! マジに一人きりだ。千尋丸の奴、さすがに大天狗さまの呼び出しは無視できなかったか」


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