15、母の秘密(2)
「もうね、もうね……すっごく! イケメンだった!」
「は?」
「はじめはものすごく怖かったのよ。体は大きいし、全体的に黒いし、なんかやたらと圧かけてくるし。でも話せば案外優しくて……。ああ、かっこよかったなあ! あたしの初恋!」
わかる。たしかに第一印象は威圧感がすごくて最悪だけど、彫りが深くてかっこいいし、意外に親切なところがある。
「どんなふうに出会ったの?」
羽菜の質問に、母の顔はさらに若返ったかのように輝いた。長年胸に秘めたる宝物について語るチャンスを得た今、昔の約束なんて勝手に時効だ。
「ほら、お母さんね、初めて空を飛んだのが小学一年生の時だったって、前に言ったことがあるでしょう」
ふつう魔女が飛ぶのは十二、三歳。それを母は七つで飛んだ。それは本当に偶然で、止めてあった祖母の自転車に
「たしかうまく制御できなくて、瑞希おばさんと一緒にお山のほうに吹っ飛ばされたんだっけ。よく帰れたよね」
「うふふ。それよ」
あ、と羽菜は思った。母の言葉の続きにピンときた。
「空の上でね、烏天狗があたしをキャッチしてくれたのよ」
やっぱり。だが羽菜は少し残念に思った。
――誰も経験したことがない、あたしだけのものだと思ったのに。
今日の体験は間違いなく生涯でベスト3に入るだろう。あんなに刺激的で胸が弾むような体験は。
「彼はあたしを地面に降ろしてくれたけど、それはもうカンカンだったわ。『天野の魔女のくせにまともに飛べないのか!』って怒鳴られて。でもあたしもびっくりしすぎてわけがわからなくて、大泣きしちゃって。そしたら向こうも急に優しくなって。一緒に瑞希と自転車を探してくれることになったのよ」
わかる。すごくわかる――うなずいていたら次の言葉に固まった。
「でも直後に別の天狗が自転車と瑞希を見つけてきてくれたの。その天狗もイケメンだったけど、一人目よりもっと怖かった。『天狗の領域を侵すのはご法度だぞ』って凄まれてね。綺麗な顔だから余計に怖かったな」
――そこまで一緒かあ。
まったく偶然に
「その天狗たちって、なんて名前? ……あ、いや、聞いたのかなーと思って……」
「聞いたよ。でも小さい頃のことだしちゃんと覚えてなくて。えっとね、たしか……
羽菜は勢いよく吹き出して台にしがみついた。
――
腹から笑えば残念な気持ちが若干晴れた。
――〈まる〉じゃない、〈千尋丸〉。あたしは彼の名前をきちんと聞いて、知っている。
「そんなに笑うことぉ? 箸が転んでも可笑しい年頃っていうもんね」
「いや、だって。犬? 猫? それ本当に天狗だったの?」
「失礼ね! ちゃんと烏天狗でした。でもたしかに……ふふ、
母と娘でケラケラ笑う。自分たちの名前をこんなふうに笑われたと知ったら、あの二人は激怒しそうだ。
「ああ、話がそれちゃった。それでね、あんたの名前は天狗の助言を参考にしたのよ」
羽菜ははっと顔を上げた。母はもう夢見る乙女から覚めていた。
母は皿を一枚取ってごしごしこすり始めた。こびりついたものがあるのか、ごしごし、ごしごし、執拗にこする。
「今思い返せば不思議なんだけど……天狗は瑞希の名前に反応したの。あたしは自分の名前が好きじゃなかったから、『いつか自分にも娘ができたら瑞希みたいな可愛い名前をつけるんだ』って言ったのよ。そしたらすごーく反対されてね、『花にしろ』って言われたの。でも後から来たほうの天狗には――意外なんだけど――『自分が良いと思う名をつければいい』と言ってもらえたから、二人の案を採用することにしたの。で、読みは〈はな〉の漢字違い」
――折衷案じゃん! 烏珠め、余計なことを……!
今自分が苦労しているのはあいつのせいか。知ったからには、今度会った時に何らかの方法で仕返しを――うん、できれば二度と関わりたくない。
ふと母がこちらを見ていることに気づき、羽菜は首をかしげた。
「何?」
「恨んでる?」
「何を?」
「名前のこと」
「ああ……」
こういう時、返答に困る。相手が欲しがっている言葉が明確にわかるのに、自分は言いたくないからだ。嘘つきは地獄に落ちると羽菜に教えたのはこの人のはずだ。
「んー、まあ、しょうがないよね。今さらどうしようもないし」
母から顔を逸らして一心に皿を拭く。一枚、二枚、三枚――番町皿屋敷?
「そっか……」
気落ちしたような母の声に羽菜もちょっと気分が沈んだ。
――いや、お前は飛べる。
――おれがお前の練習を見てやる。
そうだ、自分は今日、初めて自力で空を飛んだのだ。
胸がドキドキして、そわそわして、いてもたってもいられないような気持ちになる。言いようのない興奮が体の中心から湧き上がってくる。
秘密にしたい。
誰かに聞いてもらいたい。
自分だけの体験にしておきたい。
自慢したい。
二律背反。
――あたしはこれから天狗に飛行を教わるんだ。お母さんのように、偶然の一度きりじゃないんだ!
羽菜は勢いよく母のほうを振り向いた。
「あのさ――!」
「ごめん、姉さん! 遅くなっちゃって」
ぱたぱたとあわただしく風花おばが入ってきて、羽菜はびくっと肩を揺らした。母も驚いていたが、やけに明るく笑っておばのほうへ体を向けた。
その笑顔を見て、羽菜の心はすうっと冷えた。
――お母さん、あたしの返事を聞きたくなかったんだね。そうだよね、話の流れ的に、あたしが名付けについて文句を言う可能性もあったもんね。
うつむいて食器を拭く娘に背を向け、母はタオルで手を拭いながら風花おばに近寄っていった。
「長かったわね。母さん何だって?」
「それがねえ、いきなり『お山が騒いでるから、ちょっと裏を見てこい』なんて言い出して。かるーくお屋敷周辺を見て来たのよ」
「それでどうだったの?」
「特に何も」
風花は冷蔵庫からよく冷えた麦茶を取り出してグラスに注ぎ、一気に喉を潤した。
「母さんは地鳴りがしたって言うんだけど……。まあ何かあったとしても、天狗がなんとかするでしょうから、私たちにはほとんど関係ないんだけどね。というか、天狗のほうで何かあったのかもね」
もしや昼間のあれが原因だろうか。千尋丸は明日ちゃんと来てくれるだろうか。
――危なかった。天狗に飛行を教えてもらうなんて言ったら、明日一緒に家に連れ帰るって言われるところだったかも。
正気に戻ると不安がせり上がってきた。母から聞きたいことは聞けたし、危うく千尋丸との約束を破るところだったし、ここに残ったってもう何も得るものはない。羽菜は急いで残りの仕事を片し、足早に出口へ向かった。
「あ」
と、あることを思い出して立ち止まる。
「お母さん」
「なにー?」
「さっきの話、瑞希おばさんは――」
「たぶん昔すぎて覚えてないよ」
母は意味ありげに片目を瞑った。この話はもうおしまい――母の秘密はまた古い箱に戻されたのだ。
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