12、怒れる美天狗
切れ味の鋭そうな風の音。羽菜たちの前に一人の烏天狗が立ちはだかった。シュッとして青みがかった黒の翼が行く手を遮る。
「どこへ行く、千尋丸。ずいぶん大きな荷物を抱えているようだが」
「……
烏珠と呼ばれた烏天狗は息を呑むほど美しい顔立ちをしていた。目もとは涼やかで鼻筋通っており、烏の濡れ羽色の長髪が透き通るような白い面を際立たせる。触れれば冷たそうで、千尋丸とは真逆のタイプのイケメンだ。文句なしに美しい――美しいのだが、気になるのは唇の色だ。朝顔みたいな紫色。プールに浸かりすぎてもこうはならない。口紅でも塗っているのだろうか。
紫の唇がキビキビ動くたび、氷柱のような言葉が投げつけられた。
「その娘、魔女と見た。魔女など抱えてどこへ行く。そもなにゆえ魔女がこちら側にいる。まさかとは思うが、連れ込んだのではあるまいな」
「こいつは魔女じゃない。できそこないでな、迷子になったのを助けてやるところだ。そんくらいなら別にいいだろ」
――さっきはできそこないじゃないって言ってくれたじゃん!
羽菜がキッと千尋丸を睨みつけると、烏珠がくつくつと喉を鳴らした。
「まったく懐いていないようだ」
「お前にゃ関係ない」
「いや、ある。お前は今、掟に反している」
「はっは! お前がそれを言うか。おれはこいつを家に帰してやるだけだ。それとも山に置いてこいってか」
「それだけでは済まないことを俺はよく知っている」
そうして睨み合うことしばし。羽菜はだんだんいらいらしてきた。太陽に肌が焼かていくのがわかる。このままではステーキになる。たぶんウェルダン。食べるのは好きだが自分がなるのは嫌だ。相変わらず足の下に地面はないし、せめて日陰に降りてからやってもらえないだろうか。
「……あのう、そろそろ地面が恋しいなー、なんて。あと暑いです」
天狗二人はそれぞれ違った反応を見せた。千尋丸は呆れ半分愉快半分の変な顔、対する烏珠はみるみる怒気を帯びて白面が赤紫へと色を変えた。
――そんな顔されても、こっちは日焼けが気になるお年頃なの!
羽菜が怒れる美顔と太陽光から逃れるように千尋丸の首もとに顔を埋めると、烏珠は苛立たしげに翼を二、三度動かして、威嚇するように風を起こした。
「娘をこちらへ引き渡してもらおう。俺がお前の代わりに送り届ける」
「嫌だと言ったら?」
「今すぐ娘ごと地面に叩き落としてやってもいい」
イケメンでも物騒なのはいただけない。
「羽菜」
千尋丸が低くささやいた。
「ちょっとの間息ができなくなるから、今すぐ吸え」
「えっ、何?」
ドン! 強く打たれたような音に衝撃。のしかかる負荷に固く目を瞑る。洋画のタイムマシンの主人公みたいに何もかもを後ろに置き去りにしていくような、例えるならそんな感覚。
数分か、一瞬か。じわじわと脳に染み込むように周囲の音が戻ってきて、落ち着いた千尋丸の声が耳に届いた。
「着いたぞ」
強く瞑っていた目を開ければ、そこは天野の屋敷の裏庭だった。樹齢千年の杉の木の裏に二人はいた。周囲に烏珠の姿はない。
待望の地面に足をつけるや、羽菜は膝から崩れ落ちた。震えて足に力が入らない。ゆっくりと呼吸が戻ってきて、息を止めていたことに気がついた。長距離走の後のように心臓がばくばく鳴っている。
「怖かったか」
低く深い声音で千尋丸が問う。振り仰げば筋骨隆々とした黒鋼の翼が空を隠し、顔にはカラスのくちばしがつやつやと光り――正真正銘の烏天狗が、労るようなまなざしでこちらを見下ろしていた。
「なんか……びっくりして……」
うまく言葉にならない。千尋丸は理解を示すようにうなずいた。
「だろうな」
「えっと……、さっきの、烏珠さんは……? ていうか、そのくちばしは……」
「これは全力で翼を使うと出るんだよ。風を切り裂けて気持ちがいいんだぜ。あいつはおれがお前を抱えて翼を使うとは思わなかったらしい。すぐに反応できずに固まっておったわ」
呵ッ呵ッ! 笑う千尋丸はいたずらが成功した小学生男子のようで、それなら烏珠はそれに手を焼く学級委員長――少し羽菜に笑みが戻った。
「烏珠さんって、怖い天狗なんですね」
「人に対して友好的な奴ではないな。だからお前は気をつけとけよ」
「でもさっき風を起こされた時、ちょっと涼しかったなあ。だってずーっと太陽に焼かれて、すっごく暑かったんだもん」
羽菜がぺろっと舌を出すと、ため息交じりの呆れ声がくちばしから落ちた。
「お前、けっこう図太いんだな……」
羽菜は千尋丸の背後にあふれる空を見上げた。高い。あんなに遠く見えるのに、つい先ほどまではあの青の中にいたなんて。
「あたし、他の魔女に乗せてもらって飛んだことはあるけど、あんなに高く昇ったのは初めてです」
名残惜しく天狗と視線を合わせる。
「……でも他の天狗に怒られちゃったし、もうこれっきりですね」
――いい経験した。これであたし、きっと一人でも頑張れる。
千尋丸は腰に手を当てて空を仰いだ。
「あいつは特にそうなのだ。おればかり目の敵にしやがって……。こうなったら意地でもお前の稽古をするからな」
羽菜はパチパチ瞬きした。
「えっ、ほんとにやるんですか? 飛ぶ練習を?」
「無論だ。いいか、このことは誰にも言うな。ばれたらいろいろと面倒だ」
隠したところでまた烏珠に見つかるのではなかろうか。
羽菜の心配をよそに、千尋丸は大きな体を風船みたいにふわりと浮かせて、
「では明日、昼過ぎにここで」
と、一方的に言うと、大きく広げた翼で凶暴な風を巻き起こした。
羽菜は驚いて顔を伏せ、風が収まってからすぐに空に目を凝らしてみたが、もう黒い点すら見つからなかった。
「あれじゃあ、人間は息できないよね……」
じわじわと笑いがこみ上げてきた。自分の身に起きたことが信じられず、怖かったような、それ以上にぞくぞく、わくわくするような――。
――やばいやばい、どうしよう! あたし、どうしよう!
ぴょんぴょん飛び跳ねていると、背後で草を踏みしめるような音がした。半笑いのまま振り返ったところで、木々の間からこちらを睨みつける見目麗しい天狗と目が合った。
――あ、終わった。
逃げ場はない。千尋丸もいない。羽菜がヒッと喉を引き攣らせてその場に凍りつくと、烏珠は羽菜の足もとに何かを投げてよこした。茶色くて細長い物――花梨のステッキ。
「二度と境界線を越えるな。次は容赦しない」
それだけ言うと烏珠はあっさり去った。千尋丸と同じように翼を広げて風を起こしたが、あまり周りの木々を揺らさないスマートな飛び立ち方だった。
羽菜はステッキを拾い、詰めていた息をゆるゆると吐いた。
「今度会ったらお礼を言わなきゃ……って、会わないのが一番だよね」
するとまた背後で草を踏みしめる音がして、羽菜はぎくりと硬直した。
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