11、天狗の申し出
「飛ぶことに関して一流のこのおれが、お前の練習を見てやると言っているんだ。おれがお前を飛べるようにしてやろう」
「……本当に? でも……あ、ええと、ほら。天狗って人間と関わっちゃいけないでしょ?」
ふんと千尋丸が鼻を鳴らすと、風が起こって枝葉が揺れた。
「大天狗のじじいが勝手に言っていることだ。別に厳格に守らにゃならんもんでもない。最近はこの山にも人が増えたからな、天狗も悪い気にあたったり人酔いしたりしちまって元気がないが、昔はちょいちょい人にいたずらを仕掛けては楽しんだものだ。ちょうどおれは暇でな、お前はなかなか面白そうだから付き合ってやる。ついでに
――いい奴? ううん、これたぶん自分本位なだけだ。
でもなんだか好きだなと、羽菜は思った。
「やっぱりお山に人が多いと天狗は迷惑なんですか?」
「いんや? 信仰する者が増えるのはありがたい。人々に忘れられてしまえばおれたちの力も弱まり、お山を守ることが困難になる。……そうだな、神職の者の言うことを聞かなかったり、ゴミを放置していった奴のことは許さんな。追いかけて、ちいとばかし呪うことはある」
冗談めかしてはいるが、その笑みの裏に本気が見えた。
――うわ怖ぁ……。
そう思っていることが顔に出てしまったのだろうか、千尋丸はまた羽菜の顔を焦げそうなほどに凝視し始めた。
「あの、そんなに見られるのは、ちょっと……」
「いや、少し前にお前とよく似た娘と出会った。そいつはもっとガキだったが……その時のことを思い出してな」
天野の親族はこの地に点々といるが、お山に入る時は必ず当主の許可を取り、それが分家筋ならなんとなく他の魔女の耳にも入る。羽菜が知る限り、最近は誰も飛行練習をしていないはずだ。誰のことを言っているのだろうか。――待って、最近?
「いつですか?」
「たしか三、四十年ほど前か」
「そういうのは少し前って言わない」
仕方なかろう、千尋丸はまた首をゴキッと鳴らした。天狗にとっては三、四十年前も昨日のようなものなのだろう。
「そのくらいなら、あたしの母かも……。名前は覚えてますか?」
「いや……なるほど母か。月日が経つのは早いものだ」
千尋丸は髭のない顎をつるつるなでた。頭の毛量は多いのに髭はないなんて、毎朝丁寧に剃っているのだろうか。――なんだそれ、面白すぎる。想像したら笑いがこみ上げてきて、羽菜は誤魔化すように咳払いした。
ここで千尋丸が突拍子もないことを言い出した。
「だとしたらお前の名にはおれも関係している。というか、ほとんどおれがつけたようなものだ」
「え? じゃあ、あたしが飛べないのはあなたのせい?」
天狗は男らしい唇をぐいっとへの字に曲げた。
「助言してやっただけだ。だが漢字を変えて〈はな〉にするとは……」
「あたしの名前に天狗が絡んでるなんて、一度も聞いたことないけどなあ」
「そうだろう。他言するなと言ったからな」
「どうして?」
「お前はすぐに掟を忘れるんだな。飛ぶ練習より記憶力を――」
着物のボンボンをちぎり取ってやろうと掴んだら、「おいやめろ!」と叫ばれた。
よし、帰ったら母に聞いてみよう――待てよ、そもそも自分は無事に帰してもらえるのだろうか。
「さて」
千尋丸は羽菜を腕一本に抱え、巨躯に見合わぬ身軽さで立ち上がった。一本刃の高下駄でもバランスが崩れることはない。
羽菜は悲鳴を飲み込んで分厚い胸板にしがみついた。天狗の気分次第で足から垂直に落ちることを想像し、身を固くした。
「おれは親切だからな、ちょいとひとっ飛びして、お前を天野の屋敷まで送り届けてやろう」
「えっ?」
「担ぐぞ」
言うが早いか両手で羽菜を造作もなく持ち上げた。高い高いの格好だ。地面がさらに遠退いた。
「ぎゃあ! う、浮いてる! 落ちる! 落ちる! 放して!」
「放してもいいが、それこそ落ちるぞ」
「いやー!」
千尋丸はほいっと肩にジャケットをかけるみたいに羽菜を担いた。腹が天狗の頑強な肩にぶつかり、一瞬息が止まった。
――ふつうこういう時って、お姫さま抱っこじゃないの? っていうか座ってる時はそういう体勢だったじゃん! なんでそのまま持ち上げてくれないの!
これは乙女に対する正当な扱いではない。羽菜は目下の広い背中をバシバシ叩いて訴えた。男は煩わしそうに「わぁったって!」と野太く叫ぶと、「運ぶのにはこれが楽なのに……」なんて口の中でぶつぶつ文句を垂れながら羽菜の尻を腕の上に乗せた。幼児の抱っこだ。この男の頭の中にはお姫さま抱っこが存在しないらしい。
「これでいいだろ」
「……はい」
納得したわけではないが、前に母が父と喧嘩して仲直りした後に、「男を上手く扱うにはある程度の妥協が必要なのよ」と言っていたのを思い出した。
羽菜は千尋丸の肩の布を遠慮がちにちょびっとつまんだ。
――こんなイケメンに抱っこしてもらったなんて、花梨に言ったらなんて言われるかなあ。
すると千尋丸の体が小刻みに震えていることに気がついた。強面が顔を歪めて頬の筋肉をひくひくさせている――おそらく笑いを堪えている。
「な、なんですか?」
「お前、遠慮してんのかもしれんが……そんな虫みたいな掴まり方、空に上がった瞬間に思い直すぞ、きっと」
千尋丸が力強く足場を蹴った。羽菜は咄嗟に天狗の首すじに顔を押しつけた。
気づけば抜けるような青の中にいた。先ほどと違うのは、身一つで上下なくぐるぐる回っているのではなく、セーフティーバーがあるという点だ。お陰でパニックにはならずに済んだが、はっとして少し天狗から顔を離せば、しっかり抱き着いた自分の腕と天狗のにやにや笑いとが目に飛び込んできた。
「ごめんなさい!」
「おい、暴れんな!」
思わず離れようとしてうっかり視界に入った下は、地面どころか木のてっぺんだって遠かった。
羽菜は大人しく着物を掴み直した。烏天狗は声を上げて笑った。至極楽しそうで、屈託のない笑い声であった。
天狗の飛翔は軽快だった。まるで地面と変わらぬように空を駆ける。乗り心地は新幹線かそれ以上に快適だ。天狗の辞書に〈落ちる〉という言葉は存在しないだろうと羽菜は思った。
余裕が出てくると、羽菜はあることが気になってきた。空を駆けているのに背中の翼が畳まれたままなのである。
「翼は使わないんですか?」
「こいつを使うとな、速すぎるんだよ。それとも窒息したいのか? 試してみるか?」
「このままでお願いします……」
粗野に見えて気遣いができる。以前にも人と近しく触れ合ったことがあるのだろうか。
上からの日差しは強いが正面から当たる風が気持ち良い。遊園地で人気の空を飛ぶ疑似体験型アトラクションみたいに、足の下を緑の波がぐんぐん流れ去っていく。天野の屋敷はまだ見えてこない。それどころか遠方にもやもやと見えるはずの都会のビル群の陰すら見えない。
――この山、こんなに広かった? おかしくない? 屋敷を出たのはお昼前だったけど、今何時? 夏って日が長いからよくわかんない。そういえば、花梨のステッキをまだ見つけてない。あの子になんて謝ったらいいのかな。そうだ、千尋丸さんはステッキの行方を知っているかも。
千尋丸に声をかけようとしたところで、かすかに翼の音が聞こえた気がした。千尋丸は目つきを鋭くして舌打ちした。
「……来ちまったか」
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