10、天狗と出会う(2)



 ――あたしも教えたし、名前くらいは聞いてもいいかな?


 ごくりとつばを飲み込んで、羽菜はおそるおそる声をかけた。


「あのう、あなたのお名前をお聞きしてもよろしいですか……?」


 びくびくしていることがまるわかりの細い声が出た。機嫌を損ねていないだろうか――天狗の顔を覗き込むと、男は長い睫毛を持ち上げて目玉をぎょろりと動かし、思考の向こう側から戻ってきた。


「おれの名か? ……ふむ。たしかに命の恩人の名は覚えておいたほうがいいだろうな」

「命の恩人?」


 思わず羽菜が聞き返すと、天狗は呆れ顔になった。


「おれのことに決まっているだろう。お前が空の真ん中から落っこちてくるのを受け止めてやったんだぞ」

「ええっ!」


 驚いたがすぐに頭を抱えた。どうしてそこに考えが及ばなかったのか。自分は先ほど花梨のステッキに拒絶されたではないか。

 天狗は強そうな眉をひょうきんに持ち上げた。


「混乱しているのか、阿呆なのか……。まあ、いい。おれは千尋丸せんじんまると言う」


 羽菜を真似てか、太くごつい指で宙に字を書いてくれる。羽菜は失礼のないように、一生懸命それを目で追った。


「千尋丸さん……。えっと、助けていただきありがとうございました」


 ぺこりと会釈し、おそるおそる言う。


「あの、それでですね、ついでにどこかに降ろしてもらえたらな~、なんて……」


 千尋丸はにまぁと意地悪な笑みを浮かべた。


「嫌だね」

「でも、その、あなたが座っている枝、とても細いし……。どうして折れないんですか?」

「天狗は風そのものなんだ。風の力を借りる魔女との違いはそこにある。ところでお前、飛べないくせに、何をどうしたらあれだけ高く昇れるんだ?」


 羽菜は説明したが、内心怖くて仕方なかった。魔女の掟を破った上に天狗の神域に侵入したのだ。双方から罰を受けることになる。


 ――拷問だったらどうしよう。まさか、今の時代にそんな……ね。でも相手は天狗だし……。


 案の定、千尋丸は渋い顔をした。


「飛ぶと言うより振り回されているようだったのはそういうことか。馬鹿な真似をしたものだ。あれはな、お前が考えているように、その又従姉妹の媒体がお前に使われることを拒絶したんだ。他魔女の魔道具を使うなと教わらなかったか」

「いえ、教わりました……」

「ならますます大馬鹿者だな。こうやすやすと掟破りが現れるようになるとは、天野の魔女の質も落ちたものだ」


 心底残念そうに首を振る千尋丸の顔を、羽菜はまじまじと見た。


「魔女に詳しいんですか?」

「おれは天野の初代がこの地にやってくるより前からここにいる」


 現当主は十四代目である。天野家の始まりは戦国時代だったと聞くから、遡ればこの天狗は五百年以上前から生きているらしい。ならばもしや――。


「あたしが他のみんなみたいに飛べないのって、なんでだと思いますか?」

「そりゃあ、〈花〉の字がないからだろ」


 ビンゴ! 羽菜は一時恐怖を忘れ、ずいと天狗に顔を近づけた。


「その〈花〉の字ってなんなんですか? どうしてそれがないと――」


 千尋丸の黒い瞳に自分が見える。羽菜はあっと首まで真っ赤になって、亀のように首を引っ込めた。


「ご、ごめんなさい……」

「大きい声も出るじゃねえか」


 千尋丸は空いている手で首の後ろをポリポリ掻いた。


「さあな。魔女には近づかんことになっているんだ」

「そっかあ……」


 羽菜は気が抜けたように肩を落とした。


「ちょっとね、期待してたんです。〈花〉という字がなくても、魔力を使う方法があるんじゃないかって。……あたしね、ずっと夢見ていたんです。あたしの魔法はこの山の、天野の領地のどこかに眠っていて、今は眠っているだけで、いつか目覚める時がくるって、そう思っていたんです。そう思いたかったんです。……でも、そっか。やっぱりあたしは飛べないんだ。〈花〉がないから。さっきのは魔道具の拒絶の力で吹っ飛んだだけ……」


 あきらめる、自分には魔力なんてない。口ではそう言いながらも、羽菜はずっと希望を抱いていたのだ。このまま年齢のタイムリミットまでだらだら悩むのも嫌だったので、今回を最後にきっぱりあきらめよう。でももしかしたら、最後の最後に天尻山の神さまが手を差し伸べてくれるかもしれない――夢に人が寄り添えば儚くなるものだ。現実は甘くなかった。


 結論は出た、それもこれ以上望めぬほどにはっきりと。神さまは天狗を使い、別の意味で手を差し伸べてくれた。無理なものは無理なのだと教えてくれた。


 ずんと頭が重くなった。重い。物理的に重い。厚くて熱い、千尋丸の手。タオルでくるんだ湯たんぽを乗せられているみたいだ。


「いや、お前は飛べる。さっき証明されただろうが」


 存外穏やかな声が上から聞こえ、羽菜はぼんやりと天狗を見上げた。


「ステッキの暴走のこと? でもあれは弾かれただけで……」

「弾かれたってことが証明なんだよ。ふつうの人間があれを持っても、ただの杖になるだけだ」

「でも他には何も感じたことがないんです。魔女は自分と相性が良い媒体を探すためにいろいろ触るけど、そのどれにも小さな脈を感じるらしいんです。あたしはどんな物に触っても、何も感じたことがなくて。一番媒体にしやすいって言われている箒でもだめだったし、他にも……あ、そうだ絨毯もだめだった」

「魔女の魔力は名前の〈花〉に縛られる。だがお前の魔力は別の形で生きている。ふつうではないのだから、皆と同じ物を求めるな。ごちゃごちゃ余計なことを考えず、手探りで魔力の出し方を探せばいい。お前はできそこないじゃない」


 羽菜は天狗の顔を見た。この天狗、強面だけど実はものすごくいい奴なのかもしれない。


「でも、でもそれじゃ、あたしはどうやって……」

「あー! うぜえ!」


 天狗が吠えた。


「でも、でも、でも――お前、そいつは癖なのか? 今すぐやめろ、うざってえ!」

「すみません」


 吠えられても、羽菜はもうこの天狗を怖いとは思わなかった。


「で――ええっと、じゃあ、他に方法があるってことですか?」

「知らん。あるんじゃないのか」

「急に雑!」


 駄々っ子のようにバタバタ足を動かした。天狗は焦って羽菜の体をがっしりと支え直した。ほら、優しい。


「練習すればいいだろう。努力あるのみだ」

「ずっとしてきましたよ! それで飛べるなら、あたしは今ここにいないから!」

「おれが見てやろうか」

「はぃい?」


 変な声が出た。


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