【2】烏天狗二人

9、天狗と出会う(1)



 目が覚めたらイケメンの腕の中というシチュエーションは、少女漫画ならば火がついたように恋が始まるおいしい展開だろう。しかしそれは二次元の話だからであって、現実に起こればトラウマものの大事件である。


 目覚めた羽菜はなが最初に見たものは、見知らぬ男の顔と黒い毛だった。


 焦点を合わせるのが困難なほど近い距離で、目力の強い男がこちらをじいっと凝視している。


 周りには黒い髪がカーテンのように垂れている。最初はひげかと思ったが口周りも顎もさっぱりしているので、髪の毛で間違いないだろう。毛量も多そうだし、シャンプーが大変そうだ。


 男の吐息が顔にかかった。反射的に不快に思うが、遅れてそれが何かこう、心の落ち着く――そう、杉の香りだと気づく。


 ギギ、と音がしそうなほどぎこちなく顔を横に向ける。もし男がこのまま頭を下げてくれば、たとえ乙女でなくとも心に一生ものの傷を負うことになる。


「おい、目が覚めたならなんとか言え」


 艶のある低い声が体ごとのしかかってくる。怖い。どうして目を開けてしまったのだろう。いや、開けなければどうなっていたことか――そっちのほうがよっぽど怖い。


 頭の中を無駄にぐるぐる回していると、男は苛立ったように、


「おい、聞こえているんだろうが」


 と、さらに低い声で吠えた。


 そんなふうに威嚇されても、羽菜は今、声が出ないのだ。クラスの女子が入学早々電車で痴漢に遭ったとかで、「本当に怖いと声が出ないんだよ」と憤慨しながら言っていたのは本当だった。


 チッと男が舌打ちした。羽菜は思わず首をすくめる。相手の一挙手一投足が恐ろしい。体がカチンコチンに固まって、とてもじゃないが逃げ出せそうにない。


 もぞ、と体の下が動いた。そういえばなんだか固くて温かい。背中がじっとりと汗ばんでいる。何の上に寝かされているのだろう――答えはすぐに与えられた。


「起きたなら身を起こせ。ずっと同じ体勢でいるのは肩が凝る」


 ――まさか……!


 胡坐の上。彫りは深いが凶悪な顔の、知らない男の。


 羽菜が凍りついたのを見て埒が明かないと判断したのか、男の顔が遠ざかっていく。丸めていた背を伸ばし、ゴキッと首を鳴らして男が呻く。黒いカーテンもそれと一緒に引き上げられた。急に視界が開け、羽菜はびっくり仰天した。


 緑、茶、杉の香り、生ぬるい風。それから――。


「……ひえっ」


 地面は遥か下、そばには葉の茂る枝、枝、枝。ここは杉の木の上、それもてっぺん付近だろう。


「声が出たな。ほれ、座れ」


 男が自分の隣をバンバン叩いた。伝わる衝撃だけで落ちそうだ。

 男は黙って羽菜が動くのを待っている。自分で起きて座り直せと言うのか、この震える体で。


「無理です……」


 蚊の鳴くような声でなんとか言葉にしたが、男は厳めしい眉を険しくした。


「ああ?」


 ドスの利いた声で凄まれても無理なんです――そう言えたらどんなにいいか。

 そういえば、この男は木の枝に腰掛けているのだろうが、尻の下に枝が見えない。男の図体ほうが圧倒的に大きいのだ。枝が折れないのはいったいどういう仕組みだろうか。


 子鹿やチワワに負けず劣らず震えていると、上で男が盛大に嘆息した。


「お前、おれが怖いんだな。怖がらせるつもりはなかったんだが」


 先ほどと違い険のとれた声音だったので、羽菜はつい男の顔を見た。すると男はだしぬけに羽菜の背中と膝裏に腕を挿し入れ、まるで広げたタオルのようにふわっと持ち上げた。


「キャー!」


 羽菜が悲鳴を上げてしゃにむに男の首にすがりつくと、男は「ぐえっ」と潰れ声を出したが体はびくともせず、羽菜を自分の左太ももの上にしっかり深く座らせて、太い腕を羽菜の腹に回した。


 脳が沸騰しくらくらする。男の首から腕を外し、かわりに目の前の着物の衿を掴んで男の胸に頭を預けた。ここは風で体が煽られるし、とにかく地面と距離がある。男は怖いが、落ちるよりはいい。


「魔女のくせに高い所が苦手なのか。たしかにさっきの飛行は無様だったな」


 嘲るというよりからかい口調の男の正体にはもう察しがついている。羽菜は自らを落ち着かせるように深呼吸すると、男の奇妙な風采をためらいがちに観察した。


 一般的な天狗のイメージ通りの格好だ。渋い緑の着物に裾を括った袴、山伏の絵で見るボンボンのついた何かを肩からかける。黒くて硬そうな長髪は伸ばし放題、無造作に掻き上げられた前髪から覗く見事な富士額。頭に黒い帽子のような物を被り、ここまではギリギリ人らしいのだが、それを全力で否定するのは背中のフッサフサな黒い翼だ。これは飾り物ではない、絶対に。


 ――烏天狗からすてんぐだ。本物の……。


 お山に天狗が住む話は迷信ではないと、小さい頃から母や祖母から聞かされてきた。だが天狗は魔女の前に姿を現さないし、それは大昔に天野家と天狗側とで取り決められた約束事だからである。


 天狗は暇つぶしに登山客の前にわざと姿を現してからかったりすることもあるが、基本的には人間に不干渉、というか、せっかく天狗が姿を見せてもたいていの人には視えず、良くてもやのようにしか感じられないらしい――魔女のように特殊な力を持つ者は別として。


 今、羽菜は天狗を隅々まで視認して声を聞き、触れ、杉の香りの息に驚き――五感で天狗を捉えることができている。この事実が示す答えは一つ。


 ――やっぱりあたしにも魔力があるんだ。さっき飛べたのは、まぐれじゃないんだ!


 感極まって目を潤ませ始めた娘を天狗は怪訝な面持ちで眺めていたが、じきにその視線はじろじろと無作法なものに変わっていった。それも失礼なことに顔ばかり見る。人の顔をじろじろ見るものではないと、親から教わらなかったのだろうか。天狗に親がいるのか知らないけれど。


「お前、名は?」

「杉浦羽菜です。母は天野あまのの魔女で……」


 答えると天狗はわずかに目を見開いて、訝かしむようにゆっくりと瞬きした。


「はな? ……花、と言うのか? 花という名の魔女のくせに、飛ぶのが下手なのか」

「あたしはできそこないで、飛べないんです。でもさっき初めて――」

「飛べない? そんな馬鹿な。……待てよ、お前、字はどう書く?」


 どこか興奮気味な天狗に気圧され、羽菜は指で宙に字を書いた。


「羽に、菜っ葉の菜で、羽菜」


 天狗が眉間のしわをギューッと深めた。もともと彫りが深いので相手を尻込みさせるほどの迫力が出る。


「なるほどな……」


 低く唸るようなそれは羽菜への相槌というより独り言のようだった。


 それきり天狗は難しい顔で黙り込んでしまったので、羽菜は途方に暮れた。この状況、これから自分はどうしたらよいのだろう。


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