8、飛行練習(3)



 深く長く、息を吐く。――心臓が破裂しそうだ。


 よし、と羽菜が気合を入れると同時、目の前に何かが落ちてきた。

 目をぱちくりさせて下を見る。足もとに黒々と艶やかで立派なカラスの羽根が一枚、落ちている。


「……めっちゃ不吉なんですけど」

「カラスの羽根って、良いことが起きる前兆だよ!」

「そんなの初めて聞いたんですけど」

「それは羽菜が知らないだけ。魔女関係なくこういうのは調べれば出てくるよ。……あのね、羽菜。世界は羽菜が思っているより前向きで、明るいんだよ」


 世界は明るい――羽菜は単純に空を見上げた。木の上から一瞬覗いた太陽が両の眼を突き刺し、反射的に顔を背けた。花梨は困った顔でそれを見、後ろに下がった。


「それじゃ、わたしはもう離れるからね」

「えっ」


 羽菜は花梨のステッキを両手に握りしめ、その場でつま先をもぞもぞさせた。黒い羽根が嫌でも目に入る。


 三メートルほど離れた所から花梨が指示を出す。


「呼吸、ゆっくり。ちゃんと吐いて。吐ききったら吸って。そう、ゆっくり。焦らなくていいから、鼓動を感じて。自分とステッキの両方のだよ。……触れている部分から脈動が感じられてこない?」


 羽菜はこれまで、どんな物からもそれを感じたことがなかった。

 あきらめ半分、期待半分で手のひらに意識を集中させる。


 ――? えっ?


 触れている部分から、とくん、とくんと自分のものではない疼きを感じる。


「花梨……、花梨! 感じる! 何か脈打ってる!」

「ほんとに? オッケー、上出来! 羽菜、呼吸を乱さないで。大丈夫、ゆっくり、ゆっくり……」


 羽菜は前に母に教わったように目を糸のように開け、仏眼で呼吸を整えた。黒い羽根のことはもう頭から消えていた。


 ――聴く。とにかく聴く。魔道具の声を聞き取って、わかり合わないと……。


 ぞわり、何かが腕を伝い、一瞬で通り抜けていった。ぶわっと全身が総毛立つ。これが通じ合うということなのだろうか。しかし、これは――!



 ――気持ち悪い!




 ゴオオッ!




 羽菜とステッキを中心にして竜巻が起こった。吹き飛ばされたかと思ったが、羽菜は渦の中心に根が生えたように立ち続けている。


 千波万波と襲い来る鎌鼬かまいたちのような風に目を開けていられない。髪が顔に当たってバシバシ音を立てている。あまりの恐ろしさに立っているのが精一杯だ。しかしどういうわけか、手がステッキから離れない。境目なくくっついてしまったかのようだ。


 花梨に助けを求めなければ。なんとか片目だけをうっすら開き、花梨がいるはずのほうを確認すると、そこに彼女の姿はなかった。


 ――なんで? もしかして、今ので吹き飛ばされちゃった?


 ゴウゴウと強く風が唸る。すると羽菜の脳裏に言葉が浮かんだ――否、聴こえたと言うのだろうか。どちらともつかないが内容を理解して震え上がった。




 ユルサナイ。ケシテヤル。




 ――花梨のステッキが怒ってる……!


 全身から血の気が引いて、ステッキから手を放そうと躍起になった。どうしても指が柄に吸い付いて離れない。そうこうしているうちに、羽菜は自分が宙に浮いていることに気がついた。


 地面がずっとずっと下のほうにあって、木々の荒ぶる枝葉が近くに見える。足がぶらぶらしているのに重力を感じない。


 ――なんで? なんで? どうしたらいいの!


 目線だけを忙しなく動かしていると、何メートルか下に求めていた姿が見えた。花梨は一本の杉の木にしがみつき、羽菜に負けず劣らず青ざめている。


 目が合うと、花梨が口もとに手を当てて何かを叫んだ。おそらく降り方を教えてくれているのだろうが、風鳴りが強すぎてこちらまで届いてこない。

 羽菜はほとんど無意識に念じていた。


 ――離れろ、離れろ! 怒っているのはもうじゅうぶんわかったから!


 ビリビリと手に電流のようなものが走り、羽菜は呻いた。するとステッキはガタガタ激しく揺れ始め、繋がったままの羽菜も気持ちが悪くなるくらいガクガク揺さぶられた。


 ステッキは羽菜をより高い所から振り落とそうと考えたのか、ぐんと乱暴に高度を増した。耳もとでびゅうびゅう風が鳴り、体が上下左右にぶんぶん振られる。どっちが空でどっちが地上か色でしか判別できない上に、それすら目まぐるしく変わる。舌を噛まないよう歯を食い縛り、悲鳴を堪えてひたすら耐えた。




 急に静かになった。




 空が青い。羽菜を置いて逃げ出しそうな心臓がドコドコ胸を叩いている。体の内側が暴れ狂っていても、羽菜の心はとても穏やかだった。


 解放された――疲れ切った脳みそが脱力して言った。手には何も持っていない。安堵し、体中から力が抜け、もうどうにでもなれと宙に身を委ねる。――ああ、花梨のステッキ。どこへ飛んで行ったのだろう。傷がついていなければよいのだけれど。


 青一色の世界に浸され染め上げられて、羽菜は自分が今までの自分とは変わっていくような感覚を覚えた。


 ――飛んだとは言いがたいかもしれないけれど、媒体と呼応できたことは間違いないよね。よかった、あたし、魔女だった……。


 羽菜は満たされた心地で瞼を下ろした――が、すぐにまたパチッと開いた。


「……え、落ちてる?」


 魔女とて魔道具を失えばふつうの人間だ。


 自分にこんな声が出せたのか――やけに冷静な脳みそとは裏腹に、過去最高に甲高い悲鳴をあげて、羽菜は真っ逆さまに地上へと強制送還されたのだった。


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