6、飛行練習(1)
山道へ戻りひたすら登る。二人が目指しているのは魔女の飛行練習場である。天野の道の終着点にあり、周囲の杉の木立が目隠しになるため、多少高く飛び上がっても問題はない。花梨が初めて飛んだのもそこだった。
傾斜はそこまできつくないが、息が切れた。羽菜はぬるくなりつつあるお茶で喉を潤し、汗をかいたボトルを首すじにあてた。
「花梨は――っていうか、魔女ってさ、普段は何をやってるの?」
「へ? ……別に何も?」
振り返って羽菜の手もとを見た花梨は、思い出したように自分もお茶の蓋を開けた。
「何もってことはないでしょ。飛べるんだから、こっそり山の遭難者を救助したりとか……」
「まさか! しない、しない! そんなんやってたらあっという間に世間にばれちゃうよ」
ぐびぐび喉を鳴らしてペットボトルから口を離すと、花梨はにいと口角を上げる。
「ていうか、この山で遭難する人なんていないっしょ。天狗がいるもん」
――天狗。
「花梨は天狗に会ったことがないんだよね」
「ないない! あたりまえじゃん!」
「でも見たって人はいるよね」
「いるらしいけど、どうかなあ。……なに、見たいの? 羽菜って結構度胸あるね」
「そりゃ見てみたいよ。……魔女ってさ、あたしからすればなんでもできるように思えるんだよ。初代さまのお姉さんが天狗と渡り合っていたっていうの、すごくない? 本当かどうか怪しいとは思うけどさ」
「羽菜だって今日飛べたら道が開けるよ。天狗にだって会えちゃうかもよ?」
羽菜はこれには返事をしなかった。この無神経娘をちょっとくらい嫌な気持ちにさせてやりたい――。
「瑞希おばさんは、今年は来るの?」
思った通り、花梨は笑みを引っ込めた。
「来ないんじゃない? あの人、わたしのことひがんでるから」
羽菜はむっとした。
「あたしにはわかるけどね、おばさんの気持ち」
「ああ、ごめん。そんなつもりで言ったんじゃないんだけど」
花梨の家はここからそう離れていない所にあるが、瑞希はあまり本家に寄りつかない。劣等感から来る逃げなのだと花梨は言うが、それでもたまに来て顔を合わせると、瑞希は羽菜にとても良くしてくれる。羽菜の母ともずっと仲違いしているらしいのに気にかけてくれるのは、同情心と仲間意識からだろう。
そんな己の母を花梨は快く思っていない。折り合いが悪く、事あるごとに喧嘩している。花梨には悪いが羽菜には瑞希おばの気持ちが痛いほどわかるので、花梨の愚痴に素直にうなずけないことは多かった。
前方に開けた場所が見えてきた。目的地に到着である。今の気持ちを言い切りたいのだろう、花梨は早口に母親の愚痴を続けた。
「わたしの姓が〈天野〉なのも、あの人が父さんを婿養子にもらったからでしょ。伯父さんがいるから、婿なんてもらわなくてもよかったのにさ。それは母さんが天野の家にこだわっていたからだって、昔おじいちゃんから聞いた。おじいちゃんは何も知らないから、それを自慢に思っていたみたいだけどね。……母さんはね、ただでさえ魔女じゃないことが悔しいのに、その上籍を外れて天野の親族から仲間はずれにされるのが嫌だったんだ。……さ、着いた」
広さは住宅街につくられた遊具のある公園くらいだが、記憶よりも狭く感じた。
地面は土がむき出した。周囲の木々には紙垂のついたしめ縄が張り巡らされている。熊や猪等の獣が入らないようにするための結界である。
この練習場は今しがた登ってきた道と明らかに空気が違う。四方八方で葉がささやき合い、魔女の到着を仲間内に知らせているようだ。
蝉の声がやんだ。
突如、真正面から突風がきた。重い力に体が数センチ押し戻される。それに対抗するように花梨が一歩踏み入れようとすると、ゴオッ! と、いっそう強く吹きつけてきて、ポニーテールが鞭のように背中を打った。
やがて風が収まってから、花梨は挑戦的に八重歯を見せた。
「この風は何か意味がありそうだね」
「何かって、どんな?」
「『困難に立ち向かえ!』的な……」
「あたしには『ここに入るな!』にしか思えないんだけど……」
「ええ? ネガティブだなあ。だぁいじょうぶだって!」
花梨は自信満々に言って近くの切り株にペットボトルを置いた。内心ドギマギしながら羽菜も荷物を置いた。
なんだろう、いつもとは違う。何かが起こる予感がする。今の突風は本当に無視してよいものなのか。
怖い物知らずの花梨は鼻歌まじりにステッキをくるくる回している。風は今はほとんどない。花梨が大丈夫だと言うのなら大丈夫なのだろう――まだ鼓動が早鐘を打っていたが、切り替えようと深呼吸して、中央に立つ花梨を注視した。
花梨は両手でステッキを持つと横に倒し、肘をぴんと張って前に出した。マジックショーのはじまり、はじまり。
「家の付近じゃ迂闊に飛べないからね。今日を楽しみにしてたんだ。それでは……いざ!」
ぱっと両手を一緒に放す。ステッキはからんと音を立てて地面を跳ねた。花梨は軽く飛び上がり、両足で躊躇なくそれを踏んづけた――浮いた。ふわっと浮いた。まるで風の波に乗るサーファーだ。
「いつも思ってたんだけどさ、なんでそういう使い方なの? 傍から見てると、花梨のステッキってすごくかわいそうなんだよね」
花梨はアメリカ人みたいに肩をすくめた。
「しょうがないじゃん、持つだけだと浮くので精一杯だったんだもん。お尻に敷くか、いっそ上に立っちゃうほうがすいすい飛べるんだよね」
花梨は地面から十五センチのところで高さを固定し、羽菜に向かって腕を伸ばした。
目の前に差し出された明るい手のひらに視線を落とす。
三年前、初めて花梨のステッキに乗った時、羽菜は未知への恐怖から花梨にしがみついてバランスを崩し、二人そろって落っこちた。と言っても三十センチほどの浮遊だったので擦り傷程度で済んだのだが、それがすっかりトラウマになり、羽菜はそれからしばらく花梨の誘いに乗らなかった。花梨にしつこくねだられ励まされ、何度目かの挑戦の末に乗れた時には、その容易さに二人で腹を抱えて笑い転げた。なんのことはない、花梨にすべてを委ねてしまえばいい。
「乗って!」
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