5、魔女の掟



「――ちゃんも、本当にかわいそう……」


 Tシャツと短パンに着替えてから花梨と共に台所へ向かうと、中から母と風花おばの話し声がした。


「魔女の力は若いうちにしか発現しないじゃない。私たちの青春はいつも空と共にあったけど、それを下から眺めていることしかできないなんて、どんなに……あ、ごめん、姉さんを責めているわけじゃないよ」

「わかってる。あたしだってよく同じことを思ってるから。……初めて羽菜の名前を聞いた時の瑞希の剣幕といったら、すごかったなあ」

「泣いて怒っていたものね、彼女」

「そうね……。『あんたは昔から人のことを考えない!』ね。その通りなんだけど、あたしも頭にきちゃって、ほぼ絶縁状態になって……もう十六年か。でもねえ、羽菜の名前を決めるのに、どうしても無視できない大事なことがあったから、こればっかりはね」

「それ、いつも言うけど、どうせ教えてくれないんでしょう」

「教えません。あたしたちだけの秘密ですから」

「あらまあ、いつまで経ってもおしどり夫婦ですこと」


 母は忍び笑いした。


「……花梨ちゃんには感謝だわ。あたしと瑞希がこんなでも、羽菜と仲良くしてくれて。母親のこともあるから、余計に気を遣ってくれているのかもしれないけど――」

「はー! 今日もあっついなー!」


 隣で一緒に盗み聞きしていた花梨が予告なしに突っ込んでいった。黙ってこの場を去るという手もあったのに――羽菜は苦々しく思いながら、平常心、平常心と心で唱えて後に続いた。花梨は「暑い、暑い」とやたらに唱えている。

 大人二人はギクッとして、あからさまに話題を変えた。


「そうそう、さっき駅に降りて思ったんだけどさ、ずいぶん観光客が増えたよねえ。電車も満席だったし。早めに予約しておいてよかったわよ」

「ほら、最近パワースポットやら御朱印集めやら、神社仏閣が大人気でしょ。ここなんて都心から特急一本で来られるし、来やすいのよね。地元の観光業は潤って大喜びだけど、私たち魔女はいい迷惑よ。うちの六花も迂闊に空を飛べないし……。きっとお山の天狗たちも、静かだったのが急にうるさくなって、すごく迷惑がっていると思うのよね」


 ――別に飛べなくたって、何も不都合はありませんけどね。


 内心いらいらしながらもすました顔を装って、羽菜は花梨と一緒に食料を漁った。

 羽菜がよく冷えたペットボトルのお茶を二本取り出す間に、花梨が炊飯器をパカッと開けた。ほわほわとした香りがささやかな幸福を伴って羽菜の心をやわらげる。


「風花おばさぁん、わたしと羽菜の二人分のごはん、もらってっていい?」

「いいよー。お昼ここで食べないの?」

「うん、外でピクニックする」


 手早くおにぎりにして保冷剤と一緒に巾着袋に入れ、折りたたみリュックを広げて中に投げ込む。


「ねえ、冷まさないで握った? 今」


 こういう時、母親というものはどうして口を出さずにはいられないのだろう。


「梅干し入れたし、腐らないよ」

「中で汗かいてご飯がべちゃっとなるよ」

「すぐ食べるもん。じゃ、いってきます!」

「どこ行くの?」


 逃げるように台所を出ようとすると、母の声が追いかけてきた。羽菜は面倒くさそうに振り向いた。


「山。久しぶりだし、昔遊んだ懐かしい所をぶらぶら歩こうかなって。おばあちゃんの許可済み」

「そう」母は一度言葉を切った。そして念を押すように、「獣避けのまじないの外には出ちゃだめよ。もちろん天狗の――」

「わぁかってる! もう耳タコ! いってきます!」

「いってらっしゃい」


 言霊を大事にしろ――これも祖母の教えである。「いってきます」「いってらっしゃい」「ただいま」「おかえり」、四つの挨拶には魔を弾く結界を張る力があるらしい。これは魔女でなくとも使える簡単な魔法だが、そのことを知らない人々は蔑ろにしがちである。


 世界は見えない力に満たされている。昔の人はそれを敏感に感じ取って言葉として取り入れた。わからないだけで、頭上の葉の隙間からこぼれ落ちる日の光も、全身を包み込む風も、踏みしめるたびに良い香りを立ちのぼらせる土や草も、きっと羽菜に力を与えてくれている。


 ――ついでに魔女としての力も与えてくれたらいいのにな。


 蝉時雨が耳鳴りのように響いている。前を行く花梨の染めたばかりの茶髪が木漏れ日の下で左右に揺れる。右手に持つのはカリンの木で作られたステッキだ。花梨の魔法道具、魔力の媒体。

 羽菜は挑発的に揺れる頭の尻尾をジト目で追った。


「花梨、なんで髪染めちゃったの?」

「あれ? 似合ってない?」

「似合ってるけど、そうじゃなくて……。わかってるくせに」


 目の前の背中を睨めつける。花梨はちらと振り返って結んだ茶髪を軽く梳いた。


「――髪は魔力の源、ってやつ?」

「ほら、わかってるじゃん。染めたら魔力が落ちるんでしょ?」

「らしいね。でもやってみなきゃわからないでしょ。わたしは高校生になったら染めたいと思っていたし、やったもん勝ちかなって。だってさ、昔は髪を染めるなんて今ほどメジャーじゃなかったのにさ、『髪を染めてはいけません』なんてルールがあったと思う? それでご当主に聞いてみたら、特にそれらしい理由は伝わっていないんだって。ご先祖の誰かが言い出したんだろう、って。頭の固い昔の人の、黒髪至上主義ってやつ」


「もし本当に魔力が落ちたら?」

「染め直せるし、髪ならまた伸びてくるよ」

「それはそうだけど……」


 花梨はまっすぐ前を向いたまま、太い木の根を飛び越えた。


「同じ理由で、羽菜も飛べるようになると思ってる」


 羽菜も木の根を飛び越えようとしてちょっとつまずいた。


「どういうこと? 名前の字も、昔の誰かが言い出しただけってこと?」

「そう」

「現にあたしも瑞希おばさんも、魔力を使えないんだけど!」


 花梨はずんずん登っていく。リュックを背負っていないとはいえ、しなやかな体は体幹が強くよろけることはない。


「どうして〈花〉の一字を名前に入れなかっただけで魔力を使えないのか。それにきちんと答えられる大人がいないのって、おかしいと思わない? 誰に聞いても『わからない』って言われるの。うちの母や羽菜が現れてから初めて気づくなんて変だよね。ちゃんと理由を知っていれば、菜乃花おばさんだってあんたの名前に気をつけたはずなんだよ。……知識が不自然に不完全。半端な魔女、それが今のわたしたち」


 花梨は山道を逸れ、脇の坂を躊躇なくすべり降りた。羽菜も木から木へと掴まりながらその後を追いかける。これも子どもの頃からやっていることだ。

 花梨は適当な木の幹にステッキとペットボトルを立てかけると、ちょろちょろ流れる程度の小川に両手を浸し、たっぷり溜めてからすくい上げた。手を、腕を伝い、幾筋もの透明な線が夏の昼の光に弾ける。


「わたしは魔女であることに誇りを持ってるの。羽菜にもそうなってほしいんだ」


 花梨はそう言って塗れた手を頬や額にあてると、


「はあ、冷たい! 羽菜もやりなよ、気持ちいいよ!」


 と、茶髪をきらめかせて快活に笑った。


 ――つまりあたしは不完全中の不完全な存在で、まずそれをどうにかしたいってわけね。


 小川に指先をつけながら皮肉を思い、自分の性格の悪さに辟易した。どうして相手の言葉を素直に受け取れないのか。


 ――あたしは、あたしが嫌い。花梨をうらやましがるあたしなんて大嫌い。


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