4、魔女の長
瓦屋根の重厚な大門を通り、ざりざりとタイヤが音を立てながら、砂利の敷かれた敷地内へ入った。
天野の屋敷の母屋は木造の平屋造りで、奥には十を超える離れがあり、その間を山から引かれた小川が縦横無尽に走り、所々にある池に流れ込む。庭を徒歩で行くこともできるが、それぞれの離れには木の橋が架かっているので、迂回しなくても目的の場所へ行けるようになっている。間違いなく昔の豪邸、否、それ以上だ。昔子どもら十人でかくれんぼした時は、全員を見つけるのに二時間もかかった。
車を降りて荷物を引っ張り出し、玄関へと歩き出す。上からは直射日光、下からは白い砂利の反射光のダブル攻撃。避けようのない強敵だ。鞄が重いこともあり半ば駆け足で玄関前にたどり着き、ふうと息を吐いて上を見上げる。破風屋根の守りが堅く、太陽光は影の外でギラギラ悔しがっている。敵から身を挺して守ってくれる武士みたいだ。
玄関の敷居を大きく跨いで中に入ると、当主その人に出迎えられた。
「まあ、羽菜、お帰りなさい。あら、それは高校の制服? いいじゃないの。高校合格おめでとう」
祖母は初夏の小川のせせらぎのように清涼感のある人だ。少し焼けた細い体に紺色の麻のワンピース。祖母によく似合って涼しげである。祖母が微笑むと、くさくさしていた心がすとんと落ち着き、「帰ってきた」という喜びが清水のように湧いてきた。
御年七十歳。飛ぶ力はとうになくなり、そこいらのおばあさんと変わりない。が、時たま当主の威厳が見え隠れするのを見ると、侮ってはいけないと思う。
「ありがとう。ただいま、おばあちゃん」
「二年ぶりねえ。お正月も顔を合わせていないものね。電話で話すのと直接会うのとではやっぱり違うわね。すっかりお姉さんになったみたい。ちょっと菜乃花に似てきたかしら」
後から玄関先に荷物を置いた母はぱあっと笑顔になった。
「そうなのよ、母さん。この子、幼い頃は父親似だったでしょ? でも最近撮った写真を見ると、なんだかあたしの若い頃みたいで。女の子は大きくなると母親に似てくるって、本当なのねえ」
祖母が先に立ち、いつも泊まる離れの部屋へと案内される。廊下はクーラーもないのにすうすう涼しい。格子窓から入る風は駅で感じたものと同じで心地よいが、蚊や蝿や蜂も入ってくるのは大問題だ。古い建物は好きだが、ここだけでも改装してくれないだろうか。
「羽菜だけ残るのよね?」
祖母の問いには母が答えた。
「そう。あたしは今日だけ泊まらせてもらって、明日には家に帰るから。仕事が繁忙期で休めなくてねー。お盆前に戻ってくるから、それまでこの子をお願いします」
親族が一堂に会するのはだいたいお盆の直前からだ。羽菜はかなりフライングしたと言える。
――別に、花梨に言われたからとかじゃないし。だってどうせ何したって飛べないし。でも、だけど……もし……。
「受験勉強は大変だった?」
羽菜ははっと瞬きした。祖母は勉強に関してとやかく言う人ではない。これは世間話だとすぐにわかったが、内容が羽菜にとって好ましくなかった。
「うーん、そうだね……。第一志望の公立は落っこちちゃったし」
「それは残念だけど、何事もご縁だからね。あなたの人生を彩るのは、きっと決まったほうの学校なのよ。素敵な三年間になるわ。お友達はできた?」
祖母のこういう前向きな言葉選びが羽菜は好きだ。祖母に言われると本当にそうなる気がする。
「うん。いつも一緒に行動してるのは二人かな。お盆を過ぎたら遊ぼうって約束してるんだ。校舎も綺麗だし、格好いい人もまあいるし、悪くないスタートだと思う」
祖母が口の端を持ち上げた。
――あ、始まるぞ。
「彼氏は?」
「いません」
「いいなと思う子は?」
「それもいませんっ」
「告白……」
「される気配すらありません!」
決められた舞台台詞のようなテンポの良さに、後ろからどっと笑いが起こった。祖母も喉の皮をひくひく動かしている。一気に廊下が蒸した気がして、羽菜は火照る顔を一生懸命手で扇いだ。
部屋に荷物を置いてひと息つく間もなく、花梨がこそこそ近づいて来た。
「行こう。せっかく良い天気なんだから、台所からおにぎりもらって、山で食べよ」
――花梨はどうしてもあたしを飛ばせたいんだなあ。
「おばあちゃんの……」
「許可ね! もう、わかったよ。行こう!」
言うが早いか花梨は羽菜の手首を掴んだ。幼い頃にそうしたように、二人でドタバタと廊下を騒がせる。それが無性に楽しく、意味もなく笑い転げた。
「誰か大人にもついて行ってもらいなさい」
予想通り、当主の第一声はそれだった。
「おばさん、羽菜の性格を考えてよ。わたしだから大丈夫なんだよ。大人なんていたら、羽菜は絶対集中できないよ」
花梨はどんどん前のめりになる。
「おばさんだって、羽菜のことは心配でしょ? うちのお母さんみたいになったらかわいそうだって思うよね? もう十六だし、そろそろ本腰入れないと、羽菜自身があきらめちゃうんだよ。それが一番よくないことだと、わたしは思う。名前の字がなんだって言うの。きっと何か方法があるよ。わたしは、羽菜と一緒に空を飛びたい。それに――」
一度言葉を切り、花梨は薄い唇をぎゅっと結んで、また開いた。
「……観光客が増えてる。この辺り一帯がうちの私有地だからって、飛んでる姿を見られないとも限らない。何年後かには、人の目を気にしてまったく飛べなくなるかもしれない。おばさんたちはもう飛ぶことはないからいいかもしれないけど、わたしは空が大好きだから、飛べるうちにたくさん空を飛んでおきたい……!」
膝の上で結んだ花梨のこぶしがかすかに震えている。
――一度飛ぶことを知ってしまったら、きっといつまでも空が恋しい。
もし奇跡が起きて飛べるようになったとして、それを手放す時、自分はどう思うのだろうか――なんて、あり得ない想像をする。あり得ないのだから何も心に浮かんでは来なかったのだが、なんとなく、その時は今の花梨の震えるこぶしを思い出すだろうと思った。
「わかりました」と、当主は言った。
「ただしこれだけは守りなさい。――絶対に境界線を越えてはいけないよ」
幼い頃から口をすっぱくして言われていることだ。境界線は天狗との約束。越えれば罰を受ける――天狗から。
「それはもちろん、越えないよ!」
当主は目の前に座る今にも飛び出して行きそうな魔女と、ただの天野の娘を交互に見据え、厳かに言った。
「天狗には気をつけなさい。拐かされたら、初代さまのお姉さまのようになるからね」
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