②婚姻届
あの日のように忍は「学校だろ帰れ」と追い払おうとしたものの、「今日は九時から入学式で在校生は明日から始業式です」と言い返された。だったらなんで制服なんだと尋ねると、この服じゃないと思いだして貰えないかもしれないと思ったらしい。
別に制服など着てなくても、そう簡単に忘れてたまるものか――――と言いたかったが、別の意味に取られるのも癪だったので忍は何も言わず、とりあえずさっき思い出したことの方を口にする。
「確かこないだ来た時ハンカチ忘れてたね。すぐ取って来るから、ここで待ってて」
「ハンカチ?」
「そうだよ。置いて帰ってたの、覚えてないの?」
彼女は本当に覚えがないようで目をぱちくりとさせた。
忍なら百均で買った安物のハンカチ一つ無くしたところでどうということもない。だがあのハンカチは庶民の彼から見てもそれなりのモノであることは分かる。
しかしこの少女にとってはあのハンカチは忍にとっての百均の安物ハンカチ程度の価値しかないらしい。本当に生粋のお嬢様かよ、この少女を取り巻く大人はさぞ苦労していることだろう、と忍は勝手に一人同情した。
「あの……じゃあ、中で待たせていただけますか? ずっと立ちっぱなしで、ちょっと足が疲れて」
そのくらいならまあいいか、と忍は彼女をいつかのように事務所へ招き入れた。
事務所の奥からハンカチを探し当て、ソファで座る彼女に渡すだけで終わる。忍は「はい、忘れ物」と少女に渡そうとして、テーブルの上に一枚の書類が目についた。
書類は彼から見て正向きに広げられていた。
一部記入があり、一部記入がない――――「婚姻届」。
「役所と間違えてるよ」
「知ってます! 探偵事務所と役所を間違える人なんていませーーん!」
「ここにいると思った……。書き方分からない? ちゃんとネットで調べた?」
「ネットや説明書で調べる前に機械の使い方聞いてくる人みたいに言わないでくださーーい‼︎ そのくらいのこと十分すぎるほど勉強してます!」
「妻側だけで夫側の記入がないじゃないか…………つ、『つごもり』……『ひいらぎ』?」
名前を読み上げられ、少女は「その時を待っていました」と言わんばかりにややわざとらしく照れた仕草を見せる。
「はい、自己紹介がまだでしたね。そうです、私『
「学生結婚したいの? マセてんなあ。でも結婚は…………ん」
氏名の次に目に入ったのはそのすぐ下の生年月日であった。
平成十八年四月八日。日付はまさに今日である。
「あ、お誕生日おめでとう。はいこれ」
「ありがとうございます…………私のハンカチじゃないですか」
「ごめん、お茶しか出せないけど」
「誕生日プレゼントをねだりに来たんじゃありませーーん! ……いえ、一概に否定できなくもないですけど…………」
「なんだ。予め言ってくれたら盛大にお祝いしてあげたのに」
「え⁉ そうだったんですか⁉ 連絡先知ってたのに……痛恨のミスです」
上気した両の頬に手を当てて何やら恥ずかしがっている。忍からすればただのジョークに過ぎない。
「それでその。そういうわけで私今日から十八歳になりました」
「ああ、ということは明日から高三ね」
「ちなみに
「…………何歳だと思う?」
「こんなご立派な事務所を抱えてらっしゃるのですから、う~ん、でもお若いし……二十五歳ですか?」
「………………………………」
「あ! すみません! 所長さんなんですし、二十七……二十八歳!」
「………………っさい」
「え?」
「二十一歳」
柊は所在なさげに目を泳がせる。
「じゃあその、
……私はこの日を以て十八歳、つまり成人となり、結婚が可能な年齢になりました」
「それで?」
「婚姻届を持参してきたので、あなたもご記入お願いします」
忍は柊から隠れるように自分のデスクの下にしゃがみ込み、引き出しや床に置いているファイルボックス漁りを開始した。
「あ!
あ! それとも印鑑探してるんですか‼ 押印は任意になったからなくても大丈夫ですよ‼」
「あ~~こないだはここにあったと思ったんだけどなぁ~~あの資料」
「資料探してる場合じゃないですよ!」
そこで一旦忍が一人で盛り上がっている柊に水を差すべくふらりと立ち上がる。
「マジレスしちゃうけど。婚姻届は偽装結婚や無断で届け出されるのを防ぐために当人同士だけじゃなく成人の証人二人の署名と押印もいるんだが?」
「そこは抜かりなく。こんなこともあろうかと四月二日生まれから七日生まれの同級生を洗いざらい調べあげて友だちになっておきました。数には困りませんよ」
「打算で友だちを作るな」
「探せば結構いるもんですね~」
柊は「ひと仕事したあ!」と満足げなだけで、忍のツッコミは〇.〇〇〇一デシベルも聞こえていない。
こうして民法改正の抜け穴(?)をつく不埒な娘を見ていると、成人年齢を十八歳に引き下げることに決めた社会をやや理不尽に思いつつ、再び忍はデスクの下を漁る作業に戻った。
「で、なんで俺と結婚したいの。この間は手伝いがしたいって言ってただけなのに」
それは、と一瞬柊が言葉に詰まり、そして意を決して告白する。
「伊泉寺さんが私の命の恩人で、そのお礼としてお手伝いしたいというのは本心です! でも、もっと言うとその……あの時、初めてお会いした時、一目惚れだったんです! 『親方! 空から白馬に乗った王子さまが!』みたいな。キャッ、言っちゃった♡」
これには忍も乾いた笑いを隠せなかった。聞こえた柊は「冗談じゃないです! 本気です!」と抗議する。
「で、結婚したとして俺と一体どうなりたいの」
「それはもちろん! 同じ屋根の下、一緒に生活して、事務所も二人で手を取り合って協力していくんです!」
「協力って言ったって、そっちは毎日学校があるじゃんか。ロクに手伝えもしない食い扶持が増えて俺側にマイナスしかないだろ」
「なんならエロ同人みたいな展開をご所望であればお応えしますよ!」
「うわっ、急にそんな怖いこと言わないでよ怖いじゃんか」
流石に看過できない発言だったので忍は思わずデスクから頭だけ覗かせた。
「どんだけ怖いんですか! もう十八ですから万が一淫行条例違反なんて言われても鼻で笑えるようになりましたよ!」
「いや怖いってそう言う意味じゃなくて君の気迫が怖いってことね」
忍は呆れつつ、再び頭を下げて資料漁りにいそしんだ。
「なんか自分にえらい自信があるところ申し訳ないけど、君一人好きにできて見合うような景気の良い仕事じゃないから」
「で、あれば退学し、性風俗産業に従事して家計を助けろと?」
「いや。なんで特定の産業に限定するわけ。もっと色々選択肢あるでしょ。しかもなんでもう俺と同一生計を共にする前提で語るの」
忍はセルフガサ入れの際に一度床に散らばった書類をあらかた片付けたのち柊のもとへ向かう。ソファには腰掛けず自分と柊の目線が同じになるくらいまで背を屈め、左手は腰に当て、テーブルに添えた右指の腹だけで上半身を支えた。柊もちょっとおっかなびっくりといった様相である。
「親はこのことなんて言ってるの」
「もう成人済みですから、親の同意は不要です」
「で。親はこのことなんて言ってるの」
そこだけは頑として譲れない。そんな忍の気迫に柊は自分から折れるしかなかった。
「……父がいますが今は国内にはいません。写真家で、世界中を転々としてて、今どこにいるかは知りません。ただ、毎月お金が口座に振り込まれてるだけです。小五になる前に離婚したので母はいません。親戚は探せばいると思いますけど、いざという時頼れる人はいません」
「今まで一人で暮らしてたの?」
「そうですね。中学に上がった時から、マンションで一人暮らしになります」
「そうだったんだ。…………苦労したね」
さして興味のないトーンで返すつもりだったのに、少し憐れんでいるかのような自分の声色に忍は俄に驚いた。
「……それで、親と連絡が取れないの?」
そうです、と柊が頷く。
「
「俺は……俺も、もう何年も親とは連絡取れてないよ。ずっと。晦さんと一緒だよ」
思いも寄らない話を忍から打ち明けられ、柊も気まずそうだった。
忍は姿勢を保ったまま、窓の外をじっと見つめる。つられて柊も背後を振り向く。
「……? 外がどうかしたんですか?」
「いや、外じゃなくて窓。窓拭きをしてくれる人がちょうどいなかった。いつも忘れるから…………」
窓は一見綺麗に見えて外側は細かい土や埃が付着していた。ここしばらく拭いていないためだ。
忍はもう一度デスクへ戻り、一番上の引き出しから一本の印鑑を取りだした。
柊の向かいのソファに腰掛け、デスクペンで氏名欄から婚姻届に記入し始める。その間、ペンのカリカリとした音だけが響く。
最後は手慣れたように捺印マットと朱肉を取りだして、朱肉に印鑑の面をポンポンと軽くつけた。
「あの……押印は…………」
「知ってるけど。
差出人署名に一つ、欄外に捨印を一つ押す。テーブルの上のティッシュで印面からインクを拭き取る。
「あの、私も朱肉、お借りしてもいいですか」
いつも持ち歩いていたのか、柊は鞄にしまったペンケースから印鑑入れを取りだした。
どうぞ、と忍は書類の向きを変えて柊に渡し、マットと朱肉も彼女のそばへ動かす。
柊も押印し終えると、あとは証人二名の署名と押印だけで完成する婚姻届を手に取った。異なる二人分の筆跡、そして二種類の印影をじっと見つめる。
その顔は思いのほか嬉しいという顔に見えず、本当にこれでいいのだろうかと迷っているようだった。
「嫌になったら捨てればいいさ」
「! そんなことはしません! 証人の署名もらったらすぐ役所に出してきますからね! もう取り消せませんからね! 取り消したら精神的苦痛で慰謝料ですからね‼」
急ぎ柊は鞄の中からクリアファイルを取りだして婚姻届をしまい、立ち上がって事務所を出ようとする。
「分かったから早く行きなって。あ、証人だけは押印必須だから忘れんなよ」
「分かってますよ‼」
嵐のように去って行った柊の姿が見えなくなるまで見送ってから、忍はデスクに戻って印鑑を引き出しの中へとしまう。
そしてもう一度しゃがみ込み、椅子の上に置いていたミニノートパソコンでメールソフトを操作する。最新の送受信メールを削除してからノートを閉じて、書類が入っているファイルケースの中へねじ込んだ。
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